note

2014年解釈改憲問題と1960年安保改定問題

安倍内閣の解釈改憲について喧しく議論され、賛否が問われているが、私自身の賛否はひとまず措くとして、ややもすると本来区別すべき2つの問題がごっちゃにされるきらいがあるように思う。 憲法の“内容”をどうすべきかという問題と、憲法改定の“手続き”はど…

『俺俺』の“俺”の問うもの

『俺俺』では、2通りの“俺”(もしくは“私”)が問われる。 1つは、「俺は男であり、日本人であり、人見知りであり、……」という属性の束として規定されるような“俺”である。他者が私と彼(ら)を見分け、私を私(たとえば辻大介と名指される人物)として認識…

ポピュラーなものと公的なもののコンフリクト (12)

公的なものがだれに対しても開かれていなければならないとすれば、それは相互受動的な主体へも開かれていなければならない。先の図(a)のような相互能動的な主体たちの圏域――公共圏――は、図(b)の内に繰りこまれるような形でしか、すなわち右の図(c)のような形…

ポピュラーなものと公的なもののコンフリクト (11)

「いっしょにいる」人は、テレビのなかに「現われ」ない。相互受動的な主体は「(公的な)現われ」をもちえないからだ。「純粋テレビ」においてすら、それはせいぜい積極的に暗示されるにすぎなかった。 ただ、ネット上では、暗示以上の「現われ」への転換も…

ポピュラーなものと公的なもののコンフリクト (10)

アレントのいう「公的」の、もう一つの意味もみておこう(Arendt[1958=1994:78f])。 第二に、「公的(パブリック)」という用語は、世界そのものを意味している。なぜなら、世界とは、私たちすべての者に共通するものであり、私たちが私的に所有している場…

ポピュラーなものと公的なもののコンフリクト (9)

ポピュラーなものにおける「みんな」は、決して積極的に姿を現しえない「相互受動的な主体」を含む。そのように想像された共同体である。だれに対しても開かれている――公共性の第一の意味――ということは、相互受動的な主体に(も)開かれているということだ…

ポピュラーなものと公的なもののコンフリクト (8)

ポピュラーなものにおける、見知らぬ匿名的な「みんな」を想像するということは、徹底的に受動的な(passive)、受動的でしかありえない者(たちの共同体)を想像するということでもある。なぜなら、能動的である者は、その姿を現す――顕名的である――ことによっ…

ポピュラーなものと公的なもののコンフリクト (7)

アンダーソンは、新聞や出版を例にとり、「想像の共同体」を、公共性の第一の意味における「みんな」=国民・国家に接続していく。ここではそれとは別の、ポピュラー性における「みんな」への接続点を、ラジオを例に探ってみよう。かつて平野秀秋・中野収[1…

ポピュラーなものと公的なもののコンフリクト (6)

マスメディアは、単に「広く一般に」メッセージを伝えるメディアであるのではない。そのメッセージが「広く一般に」伝えられること自体も、メタメッセージとして伝えている。これは案外マスコミ論などでも見過ごされがちなポイントである。 何年か前、「見え…

ポピュラーなものと公的なもののコンフリクト (5)

このように、(好きなものの共通性を介して)見知らぬだれかに開かれていることは、ポピュラーなものにおける「みんな」が、ある種の「想像の共同体」であることを物語る。その想像力の近代的なありようを、ベネディクト・アンダーソンは次のように描写して…

公的なものとポピュラーなもののコンフリクト (4)

それと関連して重要なのは、次のことである。ポピュラー性の場合は、好きなものの共通性が「みんな」を定義する(共通性→「みんな」)。一方、公共性の場合は、「みんな」がまず定まらないと何が共通かも決まらない(「みんな」→共通性)。機序が逆なのだ。 …

公的なものとポピュラーなもののコンフリクト (3)

公的な(public)ものに限っても、そこで想定される「みんな」は必ずしも一義的ではない。それは、公共性(publicness)という語の多義性に対応している。斉藤純一[2000:viii-ix]*1は、その意味あいを、次の三つに大別している。 第一に、国家に関係する公的…

公的なものとポピュラーなもののコンフリクト (2)

問いかたを少し変奏しよう。「みんな」のものということであれば、公的なものもそうだろう。公園や公道などの公共財は、まさに「みんな」のものである。子どもたちは、「みんな」の迷惑になることはしてはいけない、と公共の場でのふるまいかたを教えられる…

公的なものとポピュラーなもののコンフリクト (1)

「ポピュラー」なものとは、いったいどのようなもののことか。ポピュラーカルチャー研究においては、もっぱら具体的な対象(音楽、マンガ、等々の諸作品や諸作家)について論じられるためか、この問いはさほど突きつめて問われてこなかったように思える。確…

南田さんのリプライへの応答

浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』勁草書房の2章「若者の音楽生活の現在」についてです。昨日のエントリに対し、著者の南田さんよりリプライいただきました。 コメント欄でも述べたように、「仮設定された言説に対して答えることは無理です」というのは、お…

『ケータイを持ったサル』か?

2月末〆切の原稿をようやく脱稿。遅筆すぎ。やれやれどうやったら早く書けるようになるのか(はてなならすぐ書けるのだが)。 そのなかで『ケータイを持ったサル』批判をしてみた。わたしは言語・コミュニケーション研究者としての正高信男氏のしごとは、基…

ケータイ的つながりの不安

いつのまにやら3月。1月末〆切の原稿をこのあいだようやく片づけたので、こそこそとはてなを再開してみたりする。いや、2月末〆切の原稿がまだ片づいていなかったりもするのだが... 以下は、片づけた原稿のなかからの抜粋。研究が一向に進まぬことを露呈…

子育てと男女共同参画(2)

子ども数に影響を与える変数を、その影響力の強さの順に並べると、母親の年齢、健康な高齢女性の有無、夫が自営、世帯所得となる。…このモデルでは、家計所得の向上が出生率を引き上げる「所得効果」と、妻の従業が時間の価値上昇を通して子ども数を抑制する…

子育てと男女共同参画(1)

うちのチビどもの夏休みもぼちぼち終わりに近づいてきた。 だからというわけでもないのだが、id:gyodaikt:20040814#p3 さんの「夏休み」の宿題が、勝手に気になってるので、ちょっぴりネットで検索かけてみた結果などを交えながら、φ(..)メモメモ------ …

メディア(論)なるものの位相

図書新聞より依頼のあった『〈意味〉への抗い』の書評を、おとといようやく書き上げて送稿する。 いろいろ考えるところあって書きあぐねていたのだが、メディア論なるものがどういう位相に照準するものかを、え〜い、ざっくり乱暴に切り取っておこう、と思い…

「侮辱する」は発語内行為か(3)

さて、ハーバーマスの理論は、発語内行為を理念型化したコミュニケーション的行為について、その行為同定がある種の第三者的(三人称的)な審級――慣習がそこに位置しうるような――によって可能である、という構図を前提としている。 しかし、ある言語行為を特…

「侮辱する」は発語内行為か(2)

忘れたころに、つづきを書いてみる。 ある(言語)行為における意図を公然化する――(言語的)慣習によらずに――には、2つのケースがありうる。 より精確には、1つのケースしかないと言ってもよいが、そのことについては後で述べる。 スペルベル*1&ウィルソ…

「侮辱する」は発語内行為か(1)

id:gyodaikt:20040611さんのところの議論を受けて、言語行為論についてメモの走り書き。 もうちょっと丁寧に考える時間がほしいところだが、いつになるかわからんし。 発語内行為と発語媒介行為は、ある動作(motion)を行為(act)としてどう記述するかの区別で…

インターネット利用調査の「2ちゃん分析」の補足(1)

北田さんとこのコメントで、ちょいとふれたインターネット利用調査の補足(っていうか分析結果の但し書きみたいなもの?)です。 今日はあまり時間的余裕がないので、2回に分けてアップします。 私の参加している研究班で、2003年11-12月にインターネット利…

父親との会話とアイデンティティ

2002年におこなった首都圏16〜7歳調査をちょっと再分析してみた。 その結果の一部をノート。 友人・母親・父親との対面会話時間を多(1)/少(0)の2値化して、性別のダミー変数=男(1)/女(2)とともに独立変数とし、アイデンティティにかかわる6設問…

ネットユーザの10.6%が「2ちゃんねる」にアクセス

していますた。 これはパソコンでインターネットにアクセスしているユーザ(ケータイでのインターネットユーザは含まず)をベースにした比率。 インターネットユーザでない人も含む全数ベースだと、4.7%。 ま、パネル調査の2回目(前回は01年秋、今回は03年…

Metaphors we live by are brain sciences

はてなの書き込み練習をかねて、先週末に参加した(司会もした)京大のメタファWSの雑感なぞ。 参加者のおそらく半分以上は言語学者、特に認知言語学者で、その色彩の濃いWSだったが、心理学、人工知能、教育学からの報告発表もあり、瀬戸賢一氏のending…