「侮辱する」は発語内行為か(2)


忘れたころに、つづきを書いてみる。


ある(言語)行為における意図を公然化する――(言語的)慣習によらずに――には、2つのケースがありうる。
より精確には、1つのケースしかないと言ってもよいが、そのことについては後で述べる。


スペルベル*1&ウィルソンの『関連性理論』より、まずよく知られた例を一つ引いておこう。


Aさん 「これから映画見に行かないか?」
Sさん (黙って頭痛薬の錠剤を示してみせる)


このSさんの行為は、Aさんの誘いを断る行為として受けとめられるだろう。
しかし、頭痛薬の錠剤を示してみせることが、“映画への誘いを拒否する”とか“何ごとかを拒否する”とかを意味する、というような取り決め=慣習が私たちの社会に存在すると考えられようか。
ここで、Sさんの行為が“誘いを断る”行為として解釈されるのは、


Sは頭痛薬を携行している
→Sは頭が痛いのだろう
→頭が痛い人は映画鑑賞などしたくないものだ(背景的知識)
→Sは映画鑑賞などしたくないだろう
→Sは映画への誘いを断っているのだろう


と、推論(inference)されることによるのであり、頭痛薬を示すこと=映画への誘いの拒否というふうに慣習によって取り決められているからではない。
このような推論は、当該のコンテクストにおいて、頭痛薬を示すというふるまいの意図が何であるのかを忖度(しようと)することによって、駆動される。
より精確にいえば、何ごとかを聞き手Aに知らしめようとする意図――これをスペルベル&ウィルソンは「情報意図(informative intention)」と名づける――をSがもっていることを知らしめようとする意図――「伝達意図(communicative intention)」――を察知することによって、推論が駆動されるのである。


なぜ、第1階の情報意図の察知だけでは不十分なのか。
講師Aに対して、受講生Sが授業の最中に大あくびをしてみせた、としよう。
その大あくびはいかにもわざとらしく、「あんたの授業はつまらん」ことを知らしめようとするSの意図(=情報意図)が、Aには感じ取れるものだった。
しかし、受講生Sはあくびを大あわてで隠すふりをしてみせた。
つまり、講師Aからみれば、「つまらん」と言いたいのだというSの情報意図は察知できるものだったが、その情報意図をあからさまに知らしめてやろうという意図(=伝達意図)はSにはない――むしろそうした伝達意図のほうは有していないとSはAに思わせたがっている――とみなせる状況だったのである。
したがって、講師Aが受講生Sに「オレの授業がそんなにつまらんなら出て行け!」と怒鳴ったとしても、すなわち、「つまらん」ことを知らしめようとする行為としてSの大あくびの責任を問うたとしても、受講生Sは「きのうは深夜まで勉強してたから眠いだけっす、センセイの授業がつまらんだなんて、これっぽっちも言ってないじゃないっすか、被害妄想じゃん」とシラをきりとおせる状況にあるわけだ。
大あくびがいかなる行為であるか(いかなる意味をもつものであるか)ということの相互理解が、ここでは齟齬をきたす危険にさらされており、したがってコミュニケーションが成立した状況とは言い難い。
むろん、「いや、コミュニケーションがここでも成立していると言っていいのではないか」という見解もありえようが(個人的にもそう言っていいと思うし)、少なくともハーバーマスのいう「理想的発話状況」とは言い難いだろう。
いずれにせよ、このような状況は「理想的発話状況」とは言えまい、ということが確認できれば十分なので、話を先に進める。


それから、第2階の伝達意図の察知だけでも不十分で、第3階、第4階、第5階……というふうに、無限階のメタ(‐メタ‐メタ……)伝達意図が必要となるのでは、という議論もあるが(グライス−シファーのパラドクス)、野矢茂樹さんのような専門家でさえ、「理解しようとして二時間以上格闘した」(『哲学・航海日誌』春秋社、1999年、p.383)というくらいややこしいので、これも割愛。


さて、上の例にちょっと変更をくわえて*2、伝達意図の察知が、いかなる行為(意味)であるかの解釈――行為同定――を変えるものであることを、おさえておこう。

太郎は妻とある講演会に出席したが,その講演はあまりにつまらなかった.そのことをそれとなく妻に知らせるため,彼女に見えるようにあくびしてみせることにした.しかし,太郎は昨夜あまり眠っておらず,そのことを妻も知っているため,単に睡眠不足から生じたあくびと思われるおそれがある.そこで,そうではないことがわかるように(目配せや不自然な口の開けかたなどでもって)表情をくふうして,言い換えるなら,あくびのふりであることがわかるようにして,あくびする.


太郎(話し手S)は、伝達意図をもっていることを、ふるまいを調整する(目配せや不自然な口の開けかたなど)ことによって、妻(聞き手A)に知らしめている。
その伝達意図=ふるまいの調整(の察知)がなければ、太郎のあくびは単に“太郎は眠い”ことを(自然的に)意味するにとどまり、“講演がつまらない(と太郎は思っている)”ことを(非自然的に)意味する行為とはならない。
伝達意図が察知されうるか否かによって、当該のふるまいはいかなる行為として解釈されうるかのアスペクトを変えるのである。
この場合でいえば、単に“眠さの表出”として解釈されるあくびは発語行為の/“つまらなさの表出”として解釈されるあくびは発語内行為のアスペクトに、おおよそ類比しうるだろう。


このように、積極的に伝達意図をもち、ふるまいを調整することによって、聞き手の推論にうったえかけ、その意図(=伝達意図、ひいては情報意図)を公然化するのが、1つのやりかたである。
もう1つのやりかたとしては、むしろ消極的なやりかたがあり、こちらのほうがおそらく私たちのコミュニケーションにおいてはありふれたケースだ。
それは、情報意図を隠す意図をもたない――いわばアンチ伝達意図をもたない――ことによって、情報意図を公然化するやりかたである。


たとえば、所用があって先を急ぐあなたが、街頭で「アンケートに答えてもらえませんか」と声をかけられたとする。
あなたは、その相手に一瞥をくれただけで、歩みを停めようともせず、そのまま先を急ぐ。
このふるまいは相手に“アンケートの拒否”という行為として解釈されるだろう。
しかし、そのとき、あなたは、先の太郎のように(伝達意図を知らしめるために)何かしらのふるまいの調整をおこなっているだろうか。
「そんなものに答えてる暇なんかないんだよ」とは思っているかもしれないが、それを相手に積極的に知らしめようという思念している(意図している)だろうか。
この場合、そのまま足早に通り過ぎれば、「アンケートに答える気はない」ことが相手に(そして自分と相手のあいだで相互的に)わかるだろうとあなたは思っているだけだろう。
つまり、あなたは、そのことを積極的に相手に知らしめるためにふるまいを調整する(意図をもっている)わけではなく、そのことが知られてしまうだろうことを知っているだけだ。
ここにみられるのは、伝達意図の存在ではなく、知られてしまわないようにしようと・隠そうとするアンチ伝達意図の不在である。


ここでひとつ厄介なのは、こうした「アンチ伝達意図の不在」状況もまた、「伝達意図の存在」状況として、記述しようと思えばできてしまうことだ。
(ちなみに、グライス−シファーのパラドクスはそこから生じる。)
それ以上におそらくは、人間のコミュニケーションの「コミュニケーションらしさ」とでも言うべきものは、「アンチ伝達意図の不在」≒単なる「情報伝達」に、「伝達意図の存在」=「コミュニケーション」を重ね合わせうる――それゆえズレ=差異をはらむ――ことにある。

足早に歩くことは、急いでいることの記号としてしか観察できないのであり、それは、黒い雲が雨についての記号であるのと同様である。しかしながら、足早に歩くことは、急いでいることのみならず、忙しいこと、話しかけることができないことなどの表明としても捉えられるのであり、さらにそのように把握させようとする意図をもって足早に歩いていることもある。

ルーマン『社会システム理論(上)』恒星社厚生閣、p.237)


足早に歩いていることの観察からは、その人が急いでいるという情報、さらにそこから推論によって引き出される情報(話しかけても拒否されるだろうという情報など)が得られる。
それは、黒い雲が東の空に現れたことの観察から、まもなく雨が降るだろうという情報、さらにそこから推論によって引き出される情報(干しておいた洗濯物が濡れてしまうだろう、等)が得られることと、基本的に変わるものではない。
しかし、それを、「話しかけることができないことなどの表明として……把握させようとする意図をもって足早に歩いている」とみなしうる可能性がもたらされることによって、それ(足早に歩いていること)は、単なる情報伝達ならぬ、「コミュニケーション」の一例であることが可能になる。
この際に(個々の具体例において)、行為者の側に、実際に伝達意図が積極的に存在しているかどうかは、問題ではない。
「送り手側に伝達しようとする意図がなくても、情報と伝達との差異を観察することに受け手たる自我が成功するばあい、たしかにコミュニケーションは可能」なのだ。
したがって、(これまでの行論からすると意外に思われるかもしれないが)「意図性(Intentionalitat)と言語の使用(Sprachlichkeit)*3によってコミュニケーション概念を定義することはできない」というルーマンの主張(p.237-8)に、私も賛成だ。



長文になったので、つづきはまた明日。

*1: Sperberは英語圏の人は「スパーバー」と発音するし、日本でも英語学の人はそう表記するのだが、最初に翻訳されたのがフランス語の著作だったので、そちらの音訳慣例にのっとって「スペルベル」とすることが多いようだ。あたしゃ、どっちでもいいのだが、「スペルベル」と表記すると「スパーバーでは?」と言われるし、「スパーバー」と表記すると「スペルベルでは?」と言われるし、ちょっとうざい

*2: 以下の例は、拙稿「意味することにおける意図と規約」p.31-2より

*3: Sprachlichkeitを「言語の使用」を訳すセンスはいささか首肯しかねる。「言語(学)的特性」って感じではないだろうか。ルーマンはSprachlichkeitという語でもって、ここでいう「慣習」性とか、(チョムスキー流の)「文法」性とかのことを念頭においているのではと思うのだが。