『俺俺』の“俺”の問うもの
『俺俺』では、2通りの“俺”(もしくは“私”)が問われる。
1つは、「俺は男であり、日本人であり、人見知りであり、……」という属性の束として規定されるような“俺”である。他者が私と彼(ら)を見分け、私を私(たとえば辻大介と名指される人物)として認識するときの手がかりであり、個性やアイデンティティと言い換えてもいい。世界の中に、私とすべて同じ属性をもって存在している人物はいない。少なくとも今ここにこの身体をもって存在している(という属性をもつ)のは私ひとりだから。これを“俺”の〈特殊性〉と呼んでおきたい。
もう1つは、そのような属性(の束)とはまったく無関係に、世界に唯一しか存在しない“俺”の特質である。“俺”以外のだれが死のうとも、世界は消滅しない。一方、“俺”が死ぬことは、世界が消滅することに等しい。私が死んだ後も世界は存続するだろうと私は思ってはいるけれども、私が死んだ後に世界が存続していようと消滅していようと、私にとっては何の変わりもなく、それを問うこと自体が端的に無意味である。このような点において、“俺”が世界に唯一しか存在しないことを、“俺”の〈独在性〉と呼んでおこう。たとえば、他者からみて私が何らの変わりなくしゃべりつづけ、存在しつづけているようにみえても、ある瞬間に私が死んでしまっていること、私にとっての世界が――あるいは私の「魂」が――消滅してしまっていることは、十分に(思考・想像)可能だ。それゆえ、“俺”の独在性は、“俺”の特殊性とは根本的に別のことである。
『俺俺』の四章までは、もっぱら“俺”の特殊性をめぐる物語だが、五章からは“俺”の独在性へと話が踏みこんでゆく。その展開をかいつまんで追っておこう。
“俺”の特殊性は、そもそも偶さかのものにすぎず、程度問題にすぎない。自分とよく似た感じ方、考え方をもっている(属性をもっている)人もいれば、そうでない人もいる。一般には、前者とのほうが後者よりもわかりあえる等のファンタジーが存する。三章前半ではそのファンタジーに浸る俺たちのすがたがまず描かれる。
そんな苦行の糾弾にもかかわらず、俺らは解放を感じるのだった。感情を爆発させ、落ち込んだ後は、とても穏やかな境地が訪れる。三人でいることの、静かな喜びに浸る。そこまで至ると、もはや口に出さなくても、互いの考えや感情が、自分の心として理解できた。 (三章、p.105)
乾杯をすると、俺らは例によってのどを鳴らして三口ほどを一気に飲み、同じタイミングで缶を離して「んめえ!」とハモる。三人でいて何が幸福かって、このシンクロナイズド・ビールの瞬間だ。俺らが百人いたとしても、ばっちりそろうだろう。 (三章、p.116)
なにしろ俺は今、人の役に立っているのだ。俺は熱烈に必要とされているのだ。替えはきかず、ほかならぬこの俺こそが必要とされているのだ。ここまで完璧に人を理解し、求められている力を過不足なく与えられるなんて、初めての経験だった。 (三章、p.126)
しかし、それはやはりファンタジーにすぎない。「溶け合うことを求めて自我が近づきすぎれば、摩擦を起こすか、貼りついてもたれあうか、二つに一つ」(『毒身』講談社文庫、p.48)という現実主義的なモチーフが、三章後半では展開される。
「それだけじゃない。申請に来る俺の中には、ムカムカするほど性格のねじくれたやつもいる。でもその醜悪な人格は俺自身にも備わっているんだってことを、いちいち実感させられるんだよ。…(略)…。何度もそんな輩(やから)が目の前に現れると、極端な話、そいつらを殺して自分も死のうかと思うこともある」 (三章、p.153)
本書においてゴシック体で記される俺とは、基本的には、日常の場面で「我々日本人」とか「俺たち男」とか表現される“私(たち)”のことを指している。世の中には、日本人どうしのほうが、男どうしのほうが理解しあえるというファンタジーをもつ人、そこに自分のアイデンティティを感じる人も、決してめずらしくはない。それを戯画化したのが俺であろう。
似た者どうしの同族嫌悪の激しさもまた、日常的になじみ深いものだ。それは、自分の醜い部分を鏡として映し出されることへの嫌悪という以上に、自分が自分であること(のかけがえなさや取り替えのきかなさ)を揺るがされることへの恐怖が潜在しているからなのかもしれない。
その嫌悪からなのか、恐怖からなのか、四章から、俺らは互いに互いを削除する殲滅戦へと突入していく。四章の最後では、その削除される側の心象風景が一人称で描かれる。
倒れかける俺に、またそいつは体当たりを食らわせ、今度は腹に刃物を埋(うず)める。俺は膝から崩れ、仰向けになる刹那(せつな)、そいつの顔を見た。ふちの太い眼鏡をかけた丸坊主のその俺が、均であるかどうか、俺にはわからなかった。さらにそいつは俺の胸に力任せに突き立てる。俺はもう何も感じない。ただ体が反応して、咳き込んだりしている。光が暗くなっていく。もういいと思う。 (四章、p.194)
それに続く五章の冒頭、「おふくろに揺さぶられている。俺は顔を起こした」と語られる“俺”が、先ほど削除された“俺”と同じ“俺”――特殊性において同一の俺ではなく、独在性において同一の俺――なのかどうか、読者はこのあたりから宙づりにされる。五章ではこの宙づり状態がつづいたのち、最後にまた、一人称で“俺”の殺される光景が繰り返される。
俺の体を痛みが襲った。覚えのある感覚だった。矢印のような形の針がいっせいに俺に降りかかってくる。俺の視界すべてを、潤んだ目をした俺らの顔が埋め尽くす。肉の雹(ひょう)が降るように、俺らが俺の上にのしかかる。 (五章、p.228)
しかしそれは「覚えのある感覚だった」。“俺”は殺される前の記憶を(一時的に)なくしていただけで、他の俺に転移しながら生き続けていたわけだ。六章では、記憶の連続性も少しずつ保たれていくようになり、“俺”が俺たちの間で転生していっていることが徐々に明確にされていく。
そんな削除の嵐の中で自分が生き残ったと言えるのかどうか、俺にはよくわからない。俺は誰かを刺した記憶があるが、一方で、一回刺され、一回突き落とされて何か重くて硬い物に頭をぶち割られ、一回大量の足で圧迫された気もするのだ。いつ、どんな俺を相手に、どんな経緯で削除し合ったのかは、まるで覚えていない。ただ、この手や胸や頭部に、あのときの鋭くて冷たい痛み、あのときの無重力感、あのときの破裂するような衝撃、あのときの息の苦しさ、腕にかかった肉の重みとなま温かさが刻み込まれていて、ことあるごとによみがえるのだ。 (六章、p.233)
おや、俺は痛んでるよ。何も感じなかったはずなのに、痛んでいる。俺は「俺は痛んでいる」と声に出して言ってみた。俺の声は、厨房の中でかすかに反響して聞こえた。俺はテーブルを叩いてみた。ごん、と音が鳴る。埃を吹けば舞い上がる。
つまり、俺は生きていた。でも、この歓びが伝えられないという無念を感じている。それだけじゃない、今日、立て続けに二人を削除したときの感触まで、しっかりとこの手が覚えている。
奇跡が起きたらしかった。今まで俺を食ってきて、こんなことは初めてだった。俺は食っていたはずなのに、食われた俺になっていた。いや、逆かもしれない。食われていた俺が、食った俺になったのだ。
どっちでもいい。俺にはもう区別がつかない。俺の人格が二つになったわけでもなければ、どちらかに偏ったわけでもない。とにかく、食った俺は、食われた俺の歓喜と無念を体で知っていた。(六章、p.242)
食った経験(の記憶)と食われた経験(の記憶)を同時にあわせもつことは、いかにも荒唐無稽でナンセンスなようだが、思考可能・想像可能であるように思われる。それは、本質的にこれと近いことを、私たちが経験しているからではないか。不審な男が近づいてきて腹を刺された!と思ったら、次の瞬間、汗びっしょりで布団の上に起き上がっていた。このとき、私は刺されたという経験(の記憶)と布団で寝ていたという経験(の記憶)を同時にあわせもっている。ただ、通常は一方の経験を(たいていは刺された経験の方を)夢の中のできごとや、あるいは幻覚として処理してしまう。いかに刺された痛み等がリアルに記憶に残っていたとしても。そのような処理をほどこさなければ、上のような“俺”の経験と本質的に違うところはないのではないだろうか。
さて、このようにして“俺”は、死ぬことができない(かもしれないという可能性に開かれてしまった)、いわばゾンビと化す。ここにおいて、実は、共同体あるいは社会を営むことを迫る道徳的な支え、あるいは足かせが外れるはずなのだ。人を殺すべからずという共同体・社会の成立のために基盤(以前)的な規則は、〈あなたが殺されたく(死にたく)ないのであれば、あなたは他人を殺してはならない〉という定式化によって説得力をもつ。この前件が成り立たなければ、後件は説得力も強制力ももちえない。そして、死ねないゾンビと化した“俺”については、前件が成り立たないのだ。
裏を返せば、この俺たちの相互殲滅戦状況において、“俺”が他の俺たちを殺す動機・理由もなくなっている。“俺”は生きるために俺たちを殺していたのだから。
ここにいたって、殺すか殺さないかは“俺”にとって、道徳や規範などの問題というよりも、単なる「趣味」の問題――殺すことに歓びをおぼえるか、殺さないことに歓びをおぼえるか――となる。本書の“俺”は後者であったようだ(なぜかはわからないが、私も含めこの社会の大半の人もおそらくは後者のようであり、おそらくはそれゆえに社会は偶さか成り立っている)。
じわじわと俺の体を歓びが浸していき、無念は薄らいでいく。幸福感が手足や耳や頭のすみずみまでを満たし、やんわりと痺(しび)れるような快感が広がる。気持ちは穏やかで、どこか少し高いところから俺と俺のいる場所全体を見渡しているような気分である。そこは日に照らされ、柔らかい風が吹いていた。風の中には暖かい空気が含まれている。南風だった。雪の表面が溶けて、帯状に光を反射している。
俺はもう、俺を削除する気が失せている。おそらく、自分から相手を削除することは、二度とないだろう。 (六章、p.242)
しかし、その幸福感、快感はすぐに消しとぶ。
実際、俺の口は勝手に絶叫していた。言葉にならない、吼え声だった。何度も喚いた。さもないと正気が保てなかった。恐怖が、夜の冷え込みよりも猛スピードで体の芯を侵していく。
俺は一人なのだ、ここにいるのは俺一人なのだ、俺だけしかいないのだ、みんな削除され尽くしたのだ、俺が今日削除した二人、あれが最後の二人だったのだ!
自分だけしかいないという絶対的な認識が、俺を波状攻撃で襲う。 (六章、p.245)
世界中に自分のほか誰もいないという、このような「無人島」的恐怖や孤独感は(読者にとって)わかりやすくはある。ただ、私としては、どうもそこに、問題のごまかしというか、すり替えがあるような気がしてならない(それは著者の意図的なものであるかもしれないが)。この“俺”の孤独は、たまたま自分の他には誰も世界にいなくなってしまった、死滅してしまったがゆえの、孤独なのだろうか。それは、偶さか経験的に生じた孤独状況なのではなく、先験的・原理的に世界には自分以外存在しないこと――独在性――を生きてしまった、その意味での孤独なのではないのか。
たとえ、自分の他の俺が生き残っていたとしても、それは“俺”の転生先でしかない。すなわち、それも“俺”でしかない。身体的には複数の俺に分かれていようとも、それらは右手と左手の違いのようなものだ。たとえ、それらの間で会話が成り立っているようにみえても、一人二役の独り言のようなものだ。自分でコンピュータの会話プログラムを組んで、それと話しているようなイメージの方が近いのかもしれない。これは、事実としてたまたま他者がいないということとは違う。原理的に他者がありえないのだ。
他の誰が死んでも世界は消滅しないが、この“俺”(もしくは“私”)が死ぬことは世界が消滅することに等しい。その意味で、“俺”と並び立つ他者はいない。しかし、自分以外にもそのことがあてはまる――独在性を備えた――存在がいると、“俺”は了解している。本書の“俺”も、少なくともかつては了解していたはずだ。ただし、そのような誰にもあてはまるような独在性は、もはや“俺”にしかあてはまらないような独在性ではない。そもそもの独在性の語義に自己矛盾するようなものに転化してしまっている。しかし、転化することなくして、“俺”の存在と並び立つ他者はありえず、独在性の孤独はその転化の動きのなかへ紛らわされ、忘却される。
本書の“俺”はしかし、その転化が止まるような生を生きた。いわば独在性の方へと生を踏み抜いた。その独在性の孤独は、次のように「究極の独り」と表現されるようなものではありえない。「俺ら」に共有可能とみなしうるような「究極の独り」はせいぜいが転化後の独在性(の孤独)にすぎない。
俺のように、逃げた先でひとりぼっちになって絶望して彷徨っていた連中が、少しずつ集まったのだった。宇宙に自分だけしかいないというあの究極の独りを味わった俺らは、もはや削除のできない身になっていた。そんな局面に遭遇しても、体が動かないのだ。 (六章、p.249)
転化しつづける=忘却されつづける独在性の運動のなかに、ふたたび我が身を置くようになった“俺”は、したがって、ありふれた日常へと、常識的世界へと、社会へと回帰していくことになる。
そうして気がつけば、俺らは消えていた。誰もが俺ではなく、ただの自分になっていた。俺と他の人とは、違う人間だった。
そのことに気づいたとき、俺はそこはかとなく寂しかった。もう、誰かを自分のことのようにわかるということはないんだなあ、と感傷的になった。いや、と俺は考え直す。相手を自分のことのようにわかろうとし続けていれば、たまにはわかるのだ。その程度でいいのだ。すべて同じ自分であるがゆえに、自分が消えてしまうことのほうが、ずっと恐ろしかったはずじゃないか。 (六章、p.250)
私には、独在性を踏み抜いた生を経験した者が、何を考え、語り、生きるようになるのかはわからない。ただ、幸不幸とか孤独だとかに拘泥しなくなるのではないかという気もする。この“俺”のように教訓を語る以外にないのかもしれないが、それにしても、“俺”は自らの経験の伝えようのなさに、何かをあきらめ、忘れようとしているようにも思える。