2008-08-01から1ヶ月間の記事一覧

ポピュラーなものと公的なもののコンフリクト (12)

公的なものがだれに対しても開かれていなければならないとすれば、それは相互受動的な主体へも開かれていなければならない。先の図(a)のような相互能動的な主体たちの圏域――公共圏――は、図(b)の内に繰りこまれるような形でしか、すなわち右の図(c)のような形…

ポピュラーなものと公的なもののコンフリクト (11)

「いっしょにいる」人は、テレビのなかに「現われ」ない。相互受動的な主体は「(公的な)現われ」をもちえないからだ。「純粋テレビ」においてすら、それはせいぜい積極的に暗示されるにすぎなかった。 ただ、ネット上では、暗示以上の「現われ」への転換も…

ポピュラーなものと公的なもののコンフリクト (10)

アレントのいう「公的」の、もう一つの意味もみておこう(Arendt[1958=1994:78f])。 第二に、「公的(パブリック)」という用語は、世界そのものを意味している。なぜなら、世界とは、私たちすべての者に共通するものであり、私たちが私的に所有している場…

ポピュラーなものと公的なもののコンフリクト (9)

ポピュラーなものにおける「みんな」は、決して積極的に姿を現しえない「相互受動的な主体」を含む。そのように想像された共同体である。だれに対しても開かれている――公共性の第一の意味――ということは、相互受動的な主体に(も)開かれているということだ…

ポピュラーなものと公的なもののコンフリクト (8)

ポピュラーなものにおける、見知らぬ匿名的な「みんな」を想像するということは、徹底的に受動的な(passive)、受動的でしかありえない者(たちの共同体)を想像するということでもある。なぜなら、能動的である者は、その姿を現す――顕名的である――ことによっ…

ポピュラーなものと公的なもののコンフリクト (7)

アンダーソンは、新聞や出版を例にとり、「想像の共同体」を、公共性の第一の意味における「みんな」=国民・国家に接続していく。ここではそれとは別の、ポピュラー性における「みんな」への接続点を、ラジオを例に探ってみよう。かつて平野秀秋・中野収[1…

ポピュラーなものと公的なもののコンフリクト (6)

マスメディアは、単に「広く一般に」メッセージを伝えるメディアであるのではない。そのメッセージが「広く一般に」伝えられること自体も、メタメッセージとして伝えている。これは案外マスコミ論などでも見過ごされがちなポイントである。 何年か前、「見え…

ポピュラーなものと公的なもののコンフリクト (5)

このように、(好きなものの共通性を介して)見知らぬだれかに開かれていることは、ポピュラーなものにおける「みんな」が、ある種の「想像の共同体」であることを物語る。その想像力の近代的なありようを、ベネディクト・アンダーソンは次のように描写して…

公的なものとポピュラーなもののコンフリクト (4)

それと関連して重要なのは、次のことである。ポピュラー性の場合は、好きなものの共通性が「みんな」を定義する(共通性→「みんな」)。一方、公共性の場合は、「みんな」がまず定まらないと何が共通かも決まらない(「みんな」→共通性)。機序が逆なのだ。 …

公的なものとポピュラーなもののコンフリクト (3)

公的な(public)ものに限っても、そこで想定される「みんな」は必ずしも一義的ではない。それは、公共性(publicness)という語の多義性に対応している。斉藤純一[2000:viii-ix]*1は、その意味あいを、次の三つに大別している。 第一に、国家に関係する公的…

公的なものとポピュラーなもののコンフリクト (2)

問いかたを少し変奏しよう。「みんな」のものということであれば、公的なものもそうだろう。公園や公道などの公共財は、まさに「みんな」のものである。子どもたちは、「みんな」の迷惑になることはしてはいけない、と公共の場でのふるまいかたを教えられる…

公的なものとポピュラーなもののコンフリクト (1)

「ポピュラー」なものとは、いったいどのようなもののことか。ポピュラーカルチャー研究においては、もっぱら具体的な対象(音楽、マンガ、等々の諸作品や諸作家)について論じられるためか、この問いはさほど突きつめて問われてこなかったように思える。確…

仮死状態の当ブログですが、私はまだ生きてます(挨拶) 今年は7月早々から暑くて死ぬかと思いましたが、何とか生きのびました。 阪大ではグローバルCOE「コンフリクトの人文学」というのをやってて、そのなかの研究会のひとつに「横断するポピュラー・カル…