公的なものとポピュラーなもののコンフリクト (1)
「ポピュラー」なものとは、いったいどのようなもののことか。ポピュラーカルチャー研究においては、もっぱら具体的な対象(音楽、マンガ、等々の諸作品や諸作家)について論じられるためか、この問いはさほど突きつめて問われてこなかったように思える。確かに、定義に悩むほどの概念ではあるまい。手元の辞書には「広く一般に知られ(親しまれ)ている」もののこととあり(『新明解国語辞典 第五版』三省堂)、多くの場合はこの程度の答えで十分だろう。ポピュラーなテレビ番組とは、広く一般に知られ(視聴され)、親しまれ(好まれ)ている番組のことであるというわけだ。
だが、「広く一般に」とは、だれの(あいだでの)ことなのか。言うまでもなく、20代の男性と60代の女性では、「広く一般に」知られ、親しまれているテレビ番組は異なっていよう。つまり、だれを想定するかによって、何がポピュラーであるかは変わってくる。ただ、ここで問いたいのは、そういう意味での“だれ”ではない。
子どもはしばしば次のような物言いをする。「みんな、ロンドンハーツ見てるんだよぅ、うちでも見せてよぉ」。この子にとって、ロンドンハーツは、「広く一般に」見られ、親しまれている、すなわち「ポピュラー」なテレビ番組である。たとえ、実際にはクラスの、仲よしの数人しか見てはいなかったとしても、(この子もそれは重々承知だったとしても)「みんな」(everyone)見ているというその感覚はウソでないことがありうる。この「みんな」とは、いったいだれのことなのか。
横ポゼミの共同テーマ「文化とは誰のものか」に引きつけていえば、ポピュラーなものとは、このような「みんな」のものである、と、ひとまず言いうるだろう。しかし、その「みんな」とは、いったいだれのことなのか。