ポピュラーなものと公的なもののコンフリクト (11)

 「いっしょにいる」人は、テレビのなかに「現われ」ない。相互受動的な主体は「(公的な)現われ」をもちえないからだ。「純粋テレビ」においてすら、それはせいぜい積極的に暗示されるにすぎなかった。
 ただ、ネット上では、暗示以上の「現われ」への転換も、生じつつあるように思える。たとえば「ニコニコ動画」である。そこに見られるテロップの氾濫は、「純粋テレビ」的なバラエティ番組と同じ形式をそなえている。しかし、それらは「視聴者」が実際に書きこんだものだ。ここでは、視聴者が最小限の能動性をもって「現われ」ていると言えるのではないか。
 では、それは「公的な現われ」と言いうるだろうか。「公的な現われ」とは、見る‐見られる関係へと「現われ」ることだ(先の図(a)を参照)。ここに「現われ」ているのは、「みんな」に見られたいだけのものではないか。見ることによって「みんな」と相互受動的につながることから、見られることによって「みんな」と相互受動的につながることへの、転換。それはポピュラー性の内での構造転換であって、公共性への構造転換ではない。
 紋切り型のようにinter-activeなメディアと言い慣わされるネットにおいて進んでいるのは、実はむしろinter-passiveなものの変容かもしれない。