ポピュラーなものと公的なもののコンフリクト (12)

 公的なものがだれに対しても開かれていなければならないとすれば、それは相互受動的な主体へも開かれていなければならない。先の図(a)のような相互能動的な主体たちの圏域――公共圏――は、図(b)の内に繰りこまれるような形でしか、すなわち右の図(c)のような形でしか成り立ちえない。そこに、ある種の構造的な矛盾がある。


 これは理念的な話であるばかりでなく、大衆社会においては現実的にもそうだろう。「みんな」がテーブルにつき、「みんな」が「みんな」に向かい合うなどということは、実際上不可能だ。
 図(c)におけるテーブルは、公的なものでも、ポピュラーなものでもありうる。「高円寺素人の乱」のような活動*1は、どこか「ポピュラー」な社会運動と呼べそうな気もするが、それはこうしたテーブルのうえで、テーブルについていない「みんな」(相互受動的な主体)へも、ゆるくぬるく開かれた――決して「テーブルにつけ(相互能動的な主体になれ)」と呼びかける(interpellate)わけでなく――運動とは言えないだろうか*2
 そうした「ゆるさ」「ぬるさ」が、ポピュラーなものの本質だろう。それは、公的なものの「かたさ」「熱さ(あるいは冷たさ)」と相いれない。しかしそれゆえにまた、「かたさ」「熱さ(あるいは冷たさ)」による閉ざされを、開くものでもありうるのではないか。


(とりあえずおしまい)

*1:文化系トークラジオ Life: 2007年6月3日放送「運動」を参照。

*2:もちろん、活動している本人たちがそのように意識・意図しているかどうかは、別の話だ。