ポピュラーなものと公的なもののコンフリクト (8)

 ポピュラーなものにおける、見知らぬ匿名的な「みんな」を想像するということは、徹底的に受動的な(passive)、受動的でしかありえない者(たちの共同体)を想像するということでもある。なぜなら、能動的である者は、その姿を現す――顕名的である――ことによってしか、能動的であると知られえないからだ。しばしばネット・コミュニティは相互行為する=相互能動的(inter-active)な主体によって形作られるものとイメージされるが、それに対置させるとすれば、ポピュラーなものにおける「みんな」は、いわば「相互受動的(inter-passive)な主体」(Zizek[1998]*1*2からなるのだ。
 ポピュラー性の最前線を戦いぬいてきた日本のテレビ、特にバラエティ番組は、90年代以降、この相互受動性(の共同体)を積極的に暗示するようになってきた。視聴者(=「相互受動的な主体」)の反応を代弁するかのように、画面に氾濫するテロップ。収録された映像を、スタジオで見る視聴者代理としてのタレントたち。本来の視聴者はそれを、すなわち「テレビを主題化したテレビ番組を視聴する視聴者を」視聴するのであり、テレビで何かを視るのではなく、テレビというメディアそれ自体を、いうならば「純粋テレビ」を視るのである(北田暁大[2005:158]*3*4 。それはまた、ポピュラーなものの、ある種の純粋な形態でもあるのではないか。



→つづく

*1:Zizek, S., 1998, The Interpassive Subject, Centre Georges Pompidou Traverses http://www.lacan.com/zizek-pompidou.htm

*2:Zizekはこの論文のなかで、たとえばゲームとユーザのinteractivityに対置させるような形でinterpassivityを性格づけている。本稿ではむしろ人と人との(ユーザとユーザとの)interactivity - interpassivity を考えている。

*3:北田暁大,2005,『嗤う日本の「ナショナリズム」』,日本放送出版協会

*4:しかし、徹底的に受動的である受け手(視聴者)そのものが、画面のなかにその姿を現すはずがない。画面に現れるのは、せいぜいその「亡霊」であろう。そのことはおそらく、それを視る私たちが「「人間」たることを欲求するゾンビ」(北田[2005:226])であることに対応している。