ポピュラーなものと公的なもののコンフリクト (9)

 ポピュラーなものにおける「みんな」は、決して積極的に姿を現しえない「相互受動的な主体」を含む。そのように想像された共同体である。だれに対しても開かれている――公共性の第一の意味――ということは、相互受動的な主体に(も)開かれているということだからだ*1
 ここにおいて、ポピュラー性は、公共性と、その第一の意味を共有しつつ、クリティカルに対立する。ハンナ・アレントの公的なものをめぐる議論を参照しながら、その対立をみてみることにしよう。アレントは、「「公的(パブリック)」という用語は、密接に関連してはいるが完全に同じではないある二つの現象を意味している」として(念のため断っておくと、この二つの意味は、斉藤[2000]の整理した公共性の三つの意味とはまったく別のものである)、その一つを次のように説明している(Arendt[1958=1994:75]*2)。

 第一にそれは、公に現われるものはすべて、万人によって見られ、聞かれ、可能な限り最も広く公示されるということを意味する。私たちにとっては、現われ(アピアランス)がリアリティを形成する。この現われというのは、他人によっても私たちによっても、見られ、聞かれるなにものかである。見られ、聞かれるものから生まれるリアリティにくらべると、内奥の生活の最も大きな力、たとえば、魂の情熱、精神の思想、感覚の喜びのようなものでさえ、それらが、いわば公的な現われに適合するように一つの形に転形され、非私人化(デプリヴァタイズ)され、非個人化(インディヴィデュアライズ)されない限りは、不確かで、影のような類いの存在にすぎない。

 ここでアレントが、「万人に」開かれている公的なものへの参与者として、相互能動的な主体を想定していることは、明らかだろう。それに対して、ポピュラーなものへの参与者は、「公的な現われ」を欠いた「不確かで、影のような類いの存在」である。
 ポピュラーなものにおける「みんな」と、公的なものにおける「みんな」は、この点において異なる。つまり相互受動的か相互能動的かが違うのである。

*1:ネットも「だれに対しても開かれている」のだから、ネット・コミュニティもまた実のところ相互受動的な主体を含む共同体である。先に記したように相互能動的な共同体とされがちなのはイメージ上の独断にすぎない。実情としても、掲示板などのネット・コミュニティには、読むだけのメンバー(ROM: Read Only Member)=姿を現さない主体のほうが多い。

*2:Arendt, H., 1958, The Human Condition, University of Chicago Press. =1994 志水速雄訳『人間の条件』筑摩書房ちくま学芸文庫).