ポピュラーなものと公的なもののコンフリクト (9)
ポピュラーなものにおける「みんな」は、決して積極的に姿を現しえない「相互受動的な主体」を含む。そのように想像された共同体である。だれに対しても開かれている――公共性の第一の意味――ということは、相互受動的な主体に(も)開かれているということだからだ*1。
ここにおいて、ポピュラー性は、公共性と、その第一の意味を共有しつつ、クリティカルに対立する。ハンナ・アレントの公的なものをめぐる議論を参照しながら、その対立をみてみることにしよう。アレントは、「「
第一にそれは、公に現われるものはすべて、万人によって見られ、聞かれ、可能な限り最も広く公示されるということを意味する。私たちにとっては、
現われ がリアリティを形成する。この現われというのは、他人によっても私たちによっても、見られ、聞かれるなにものかである。見られ、聞かれるものから生まれるリアリティにくらべると、内奥の生活の最も大きな力、たとえば、魂の情熱、精神の思想、感覚の喜びのようなものでさえ、それらが、いわば公的な現われに適合するように一つの形に転形され、( 非私人化 され、( 非個人化 されない限りは、不確かで、影のような類いの存在にすぎない。(
ここでアレントが、「万人に」開かれている公的なものへの参与者として、相互能動的な主体を想定していることは、明らかだろう。それに対して、ポピュラーなものへの参与者は、「公的な現われ」を欠いた「不確かで、影のような類いの存在」である。
ポピュラーなものにおける「みんな」と、公的なものにおける「みんな」は、この点において異なる。つまり相互受動的か相互能動的かが違うのである。