ポピュラーなものと公的なもののコンフリクト (5)

 このように、(好きなものの共通性を介して)見知らぬだれかに開かれていることは、ポピュラーなものにおける「みんな」が、ある種の「想像の共同体」であることを物語る。その想像力の近代的なありようを、ベネディクト・アンダーソンは次のように描写している(Anderson[1983=1997:62]*1)。

 我々は、ある特定の朝刊や夕刊が、圧倒的に、あの日ではなくこの日の、何時から何時までのあいだに、消費されるだろうことを知っている。……。このマス・セレモニーの意義――ヘーゲルは、近代人には新聞が朝の礼拝の代わりになったと言っている――は逆説的である。それはひそかに沈黙のうちに頭蓋骨の中で行われる。しかし、この沈黙の聖餐式に参加する人々は、それぞれ、彼の行っているセレモニーが、数千(あるいは数百万)の人々、その存在については揺るぎない自信をもっていても、それでは一体どんな人々であるかについてはまったく知らない、そういう人々によって、同時に模写されていることをよく知っている。そしてさらに、このセレモニーは、毎日あるいは半日毎に、暦年を通して、ひっきりなしに繰り返される。世俗的な歴史の読者は、彼の新聞と寸分違わぬ複製が、地下鉄や、床屋や、隣近所で消費されるのを見て、想像世界が日常生活に目に見えるかたちで根ざしていることを絶えず保証される。……虚構は静かに、また絶えず、現実に滲み出し、近代国民の品質証明、匿名の共同体へのあのすばらしい確信を創り出しているのである。

 アンダーソンがここに見出しているのはナショナリズムもしくは国民国家の起源であるが、これはまたポピュラー性もしくはポピュラー性においてとらえられた人びと(=人口population*2)の起源でもあるだろう。つまり、公共性の第一の意味における「みんな」すなわち国民もまた、ポピュラーなものに現れる「みんな」と――起源を一にするという点で――無縁ではない。が、いまは別の点に眼を向けたい。
 それは、ここで共同性をうみだしているのが、新聞(記事)という内容・対象の共通性ではなく、新聞を読むという形式・ふるまいの共通性であることだ。新聞に書かれているのは、どんなことであってもよい。それを読んでいるのが自分だけではないと知られる・確信できること。そこに「想像の共同体」はうまれる。

*1:Anderson, B., 1983, Imagined Communities, Verso. =1997 白石さや・白石隆訳『増補 想像の共同体』,NTT出版

*2:同書の第X章においても、「相互に連関しつつこうした想像力を形成した」もののひとつとして、人口調査(census)が取りあげられている。