ポピュラーなものと公的なもののコンフリクト (7)

 アンダーソンは、新聞や出版を例にとり、「想像の共同体」を、公共性の第一の意味における「みんな」=国民・国家に接続していく。ここではそれとは別の、ポピュラー性における「みんな」への接続点を、ラジオを例に探ってみよう。かつて平野秀秋中野収[1975:102]*1は、ラジオの深夜放送の聴取者たちのすがたに、次のような共同性をみた。

 八〇万深夜放送族はそれぞれの閉空間=密室の中にある種の情報だけを入れる。その情報を媒介にして放送局と結合する。同じような無数の密室が同時に放送局と結びつく。個々の密室は、自分だけが放送局と結びついているという実感を持ち――深夜放送で読まれる投書を思い出していただきたい――放送局を中心に無数の密室がネットワークを形成しているなどと思いも及ばない。つまり主観的には〈連帯〉しないが、何かを共有しながら一つの宇宙を形成している。客観的には〈連帯〉している。

 平野・中野は、聴取者それぞれは「自分だけが放送局と結びついている」と感じ、「主観的には〈連帯〉しない」と言う。そうだろうか。聴取者は、自分以外の見知らぬだれかも、その放送を聴いていること、「放送局と結びついている」ことを知っているはずだ。なぜなら、その放送内容は、電話のような個人宛てのパーソナルメディアではなく、ラジオというだれしもに開かれたマスメディアによって届けられたのだから。
 その見知らぬだれかに、見知らぬ「みんな」に、個々の聴取者はつながり(「連帯」)を、親しみを、どこかしら何かしら感じてもいるのではないか。少なくとも、その深夜放送を聴かない、好まない人たちに比べれば。見知らぬだれかへの、見知らぬ「みんな」への親しみ。ポピュラーなものに感じとられる親しみは、おそらくそれと本質的に連関している。
 ポピュラーなものとは、「みんな」に親しまれ、好まれるもののことである、と述べた(それに対して、公的なものは親しみや好き嫌いとは無関係irrelevantであった)。だが、それ以上に、ポピュラーなものとは、それを好きである「みんな」が好きであるような、そういうもののことであるのではないか。
 あなたはあるアイドルのことが好きだ、としよう。彼/彼女はとても人気のあるアイドルだが、彼/彼女のファンのことは好きではない。「みんな」は自分とはまったく別の理由で好きなだけだからだ。「みんな」は彼/彼女の真の魅力をまったくわかっていない。このとき、あなたにとって、彼/彼女は決してポピュラーな存在ではないだろう。ポピュラーなアイドルとしての彼/彼女は、同姓同名の別人に近いようなものではないか。
 「みんな」がそれを好きであることが、自分がそれを好きであることの理由(の一部)をなす。そういう人たちからなる「みんな」の好きなもの。それが、ポピュラーなものなのではないか。

*1:平野秀秋中野収,1975,『コピー体験の文化――孤独な群衆の後裔』,時事通信社