公的なものとポピュラーなもののコンフリクト (2)

 問いかたを少し変奏しよう。「みんな」のものということであれば、公的なものもそうだろう。公園や公道などの公共財は、まさに「みんな」のものである。子どもたちは、「みんな」の迷惑になることはしてはいけない、と公共の場でのふるまいかたを教えられる。
 だが言うまでもなく、ポピュラー性と公共性は異なる。さらにはコンフリクトを生じる場合もある。公的であるべき政治を、政治家の獲たポピュラリティによって動かすことはポピュリズムと批判される(小泉政権のように)。ポピュラーなものは、公的なものに対して、「みんな」という共通点をもちつつも、何か相反する点を含む。
 それは、先の辞書的定義のなかでは(不要にも丸括弧に囲われているが)「親しまれ」であるだろう。ポピュラーなものは、身近さや親しみの感覚に結びついている。「みんな」に親しまれるもの、好まれるもの、それがポピュラーなものだ。
 対して、公的なものにおいては、そのような情緒や好き嫌いは重要ではなく、むしろ積極的に排除される。それよりも、何が「みんな」にとって正しいことか、善いことかが、判断や行動の規準となる。
 ポピュラーなものが欲求の原理に基づくのに対し、公的なものは規範の原理に基づくと言い換えてもよいかもしれない。ポピュラーなものは、その点では、むしろ私的なものに近接する。ポピュラーなものは、このように公‐私の軸を横断するがゆえに、コンフリクトを引き起こす。
 ポピュラーなものとは、どのようなもののことか。ここまででの答えは、とりあえず次のようになる。「みんな」が欲求によって関与するものである。それに対して、公的なものは「みんな」が規範によって関与するものである、と。
 しかし、まだすっきりしない。そもそも、ポピュラーなものにおける「みんな」と、公的なものにおける「みんな」は、同じ「みんな」なのだろうか。