Metaphors we live by are brain sciences

はてなの書き込み練習をかねて、先週末に参加した(司会もした)京大のメタファWSの雑感なぞ。



参加者のおそらく半分以上は言語学者、特に認知言語学者で、その色彩の濃いWSだったが、心理学、人工知能、教育学からの報告発表もあり、瀬戸賢一氏のending remarksいわく、「1年分の勉強を2日でさせてもらった」。同感。と同時に、言語研究関連の動向をフォローできていない自分の勉強不足を痛感。
通常の学会以上に報告発表のレベルも高く、3分の2以上の発表はおもしろく聞かせてもらった。そのなかから、気になった点をまずは1つだけピックアップしておきたい。
脳科学的なアプローチについてだ。この関連は2つほど報告があったが、どうもひっかかってしょうがないのは、脳内電位の測定などから得られた知見に「ベタ」にうなづきすぎてないか(特に文系の研究者)、ということだ。
つきとめられた事実は確かにおもしろい。
たとえば、快/不快は慣用的に味覚に喩えられることが多いという言語学的事実がある。「後味の悪い事件」とか"bad taste"とか「甘い恋」とか"sweet memory"とか。
ここで、脳科学の研究者から「味覚処理をおこなう脳内部位と、快/不快感によって活性化する脳内部位は、隣接している」という知見が紹介される。
それを聞いて、フロアは(声には出さねど)「なるほど」という反応。
ちょっと待て。
脳内で物理空間的に近接しているからといって、情報処理経路として必ずしも近接しているとは限らんぞ。
物理的近接性ということでうなづいてしまうなら、臭覚器官(鼻)と味覚器官(舌)の近接性でもって「甘い香り」という共感覚的メタファを説明してしまうに限りなく近い。
脳内の物理的近接は神経回路上の情報処理的近接につながる可能性は高いだろうが(しろうと考えだが)、必ずしもイコールではない。
むしろ、この場合なら、快/不快が個体や種の保存(生存)に大きく関わる情動(動機づけ)であること、味覚(や触覚)が視覚や聴覚以上に大きく生存可能性にかかわる感官であること(へたなものを食べると直ちに死に結びつく)、という生態学的事実で説明したほうが説得的だろうし、この生態学的媒介項を介して、言語学的事実と脳科学的事実をつきあわせて考えていったほうがいいだろう(もちろん認知言語学のなかでもすでにそういう議論がなされているわけだが)。
脳科学者は脳内の神経メカニズムがいかに絶望的なまでに複雑かを知っている(たぶん)。
だから、ある知見からどこまでのことが言えるかも「見切れ」る。
見切ったうえで、あえて自説(仮説)を組み立ててみせるし、議論の際には「参考程度」のつもりで脳科学的知見を紹介してみせる(のだと思いたい)。
その「見切り」なしに、言語学脳科学をショートカットさせて、うなづいてしまうのはどうか。
私個人は、土屋俊さんのように「脳研究に言語的事実の新発見は期待できない、だから気にしなくてよい」とまでは言わないが、脳科学に過大な期待はもっていない。
まあ、それは、サールが半ば正しく指摘したように、意図性(intentionality)という脳神経学的・情報処理学的事実に還元しきれないものに、私が関心を寄せているせいもあるのだが。
意図を解する(ようにふるまえる)人工知能なり何なりはいずれ実現するかもしれないと思う。
しかし、そうした工学的インプルメントができるようになったからといって、意図(性)とは何かが明らかになるわけではない。
「意図」なり「理解」なりといった語彙は、physical descriptionではなくmental descriptionの語彙だ。
これらのdescriptionを対応づけることは可能にせよ、一方に還元してしまうことはできない(と言い切ってしまうのは微妙だが)。
だって、「どういうつもり(意図)でそんなことしたの?」と訊いたとき、「わたしの脳右半球C4部位で事象関連電位N350がまず活性化し、つづいて…」と答えられても、説明になってないでしょ(あー、これもずいぶん乱暴な話だが、ま、いっか)。


話が長くなるので、それはさておき、として。
言語研究だけでなく、「ゲーム脳」*1とか「セロトニン神経」とか、脳科学は一種のブームであるようだ。
その知見は尊重するが、それを「見切る」ことをしようともせず「ベタ」に唱導・受容する風潮はどうなのだろう。
少年犯罪なりひきこもりなりの社会学的問題は、言語学的問題以上に、複雑繊細だ。
もちろん「複雑だ」「繊細だ」とばかり言っていてもどうしようもないから、社会学者もある種の単純化をほどこすわけだが、単純化することの危うさ(暴力性と言ってもいいか)だけには自覚的でありたい。論文中でいちいち断りを入れることはできないまでも、少なくとも意識のうえでは。
ゲーム脳」論、「セロトニン神経」論の自然科学的妥当性は、私には専門でないからよくわからない。
しかし、それらの論者のもつある種の無神経さ(自分が切ろうとしている問題の繊細さへの)、主張のためらいのなさ、自分が予断として抱えている価値観の無自覚さには、辟易する。
確信犯的にそうしているなら、まだしも。
社会学の分野でも「脳研究に社会的事実の新発見は期待できない」とあえて宣告してみせる大御所が必要なのかもしれない。
ま、こういう坂元章さんような落ち着いた応酬を繰り返していけばいいだけの話かもしれないが。


以上、本日の自主トレは、リンクを貼ってみる、と、註をつけてみる、でした。

*1:ゲーム脳」のリンク貼ろうとしてbk1で検索したら、「現在お取り扱いできません」になっていた。斎藤環さんが例の書評を書いたせい? アマゾンでは「2〜3日以内発送」なのに。その書評自体は残っていたので、そちらにリンク。他意はない...こともない