メディア(論)なるものの位相


〈意味〉への抗い―メディエーションの文化政治学図書新聞より依頼のあった『〈意味〉への抗い』の書評を、おとといようやく書き上げて送稿する。
いろいろ考えるところあって書きあぐねていたのだが、メディア論なるものがどういう位相に照準するものかを、え〜い、ざっくり乱暴に切り取っておこう、と思い切った。
その位相とは、ひと言でいえば「身体性(kinesics)」である。


メディアは、送り手と受け手のあいだ(medium)にあって、(メッセージの)意味を媒介するものである。
意味が主=目的、メディアが従=手段という、このいかにもコミュニケーション論的なメディア観に対し、「メディアはメッセージである」というお題目を唱えて、それらの位置価の転回をはかったのがマクルーハンだ。
このお題目そのものは、さほど真剣に解釈する必要はなく、せいぜい「メディアは(それ自体で)メッセージ(と同等の力・作用をもつもの)である」というくらいにとらえておけばよい。
重要なのは、マクルーハンがどのようにメディア観を転回したか、だ。


大ざっぱにいえば、マクルーハンは、メディアをわたしたちと世界のあいだ(medium)にあって、わたしたちの世界との接しかた=身ごなし=身体性を組み替えるもの、とみなした。
今であれば、マクルーハンは、このような見かたを打ちだすのに、「メディア」ではなく「インターフェイス(接面)」という表現をとったかもしれない。
このように転回された「メディア」観からすれば、そこには狭義の「メディア」だけでなく、およそテクノロジー一般を「メディア」とみなすことが可能になる。
だからこそ、マクルーハンは『メディア論』のなかで、住宅や衣服、車など、およそ狭義の「メディア」の枠に収まらない対象に論及したのだ。


このようにとらえなおされた「メディア」の作用――メディエーション――は、どのようにして、身体性を組み替えていくものなのか。
それは、一切れの棒を道具=テクノロジーとして用いるような、より単純素朴なケースのほうが見てとりやすい。


たとえば、それを敵と闘うための武器として用いるとしよう。
素手で闘う場合とは、間合いの取りかた、手や腕の力の入れかた等々、すべての身ごなしが変わってくる。
その扱いに習熟したとき、その棒はまさに身体の一部であるかのような運動(身ごなし)をみせるはずであり、それがかつては行為者に属さなかったモノ(物体・物質)であることは忘れ去られる。
それは身体の「延長」と化し、運動系の神経ばかりでなく、感覚系の神経の支配下にも入る。
その棒を打ち込んだとき、相手の骨の砕ける感触を、わたしたちは棒を通して(durch)手の先に感じるのではなく、まさに当の棒そのものにおいて(in)感じるだろう。
そこでは、棒のもつモノ性は後景におしやられて透明化し、行為者の意図=〈意味〉――致命傷を加えようとしているのか、軽く威嚇しようとしているのみなのか――がもっぱら前景化していく。
このとき、棒というテクノロジーによって身体性が組み替えられたことは忘れ去られ、それは予め意図=〈意味〉の媒体であったかのように見え始めるのだ。


このようにメディアとその作用をとらえなおしたからといって、マクルーハンが陥った(と言われる)技術決定論が必ずしも招来されるわけではない。
棒は武器としてだけでなく、別様に、たとえば杖としても用いることができる。世知にいわく、まさに道具=テクノロジーは「使いよう」であり、わたしたちの使いかたによってその姿・ありようを変える。


一方で、素朴な俗流社会構成主義のいうように、わたしたちの側がテクノロジーのありようを余すところなく決めるわけでもない。
モノとして重すぎる棒は、それを武器として用いようとするわたしたちの意図に反して、杖として受容されることへのズレを呼び込んでいくかもしれない。
テクノロジー(としてのメディア)のもつモノ性は、その使用者たちの意図=意味に抗い、不可避的・本質的にズレを持ちこみ、汚染するのだ。


これまでの「メディア論」の力点は、テクノロジー決定論)への抗いにあり、それの置かれる社会的文脈――わたしたちがそれをどのように用い(ようとし)ているかの――を強調するものだった。
しかし、その作業はややもすれば、それを用いる意図=意味を明確化すること、すなわちメディア(論)なるものの位相の透明化・消失につながっていく。
北田氏の呈示する「汚染学」としてのメディア論は、社会的文脈を透明化したテクノロジー決定論を退けつつ、社会的文脈のなかでなおも〈意味〉のズレを生じる契機となるメディアのモノ性を、ひとつの“虚焦点”として見据える。


この「“虚焦点”として」が重要なのだが、書評ではとてもそこまでふれる余裕がなかった(ので、少し誤解をまねく懼れがあって、気がかり)。
書評でも棒の例を使って、やはり「モノとして重すぎる棒は…ズレを呼び込んでいく」というふうなことを書いたのだが、ズレを呼び込む契機となるモノ性をこのように表現することは、かなりミスリーディングなところがある(でも、わかりやすくはあると思ったので、便宜的にそう書いた)。


「モノとして重すぎる」ことが、予め棒に内在する要因だとすれば、それはメディア(テクノロジー)の受容される社会的文脈とならぶ物質的文脈にすぎない。
これでは、社会的文脈でテクノロジーのありようが決定されるという俗流社会構成主義に、物質的文脈を加えてみました、ということでしかないだろう。
「重すぎる」ことは、武器として意図された棒が、杖として受容されてしまったときにおこなわれる、あくまで後付けの説明である。
このような説明は、意味への回収――抗いではなく――に動機づけられたものだ。
今なお多くのメディア(史)研究は、このような予定調和的な記述・説明へと陥っている。
それならば、「メディア論」と名のるのを止め、「コミュニケーション論」に立ち戻ったほうが潔いだろう(と思うので、わたしは「コミュニケーション論」をやっているわけだが)。


だから、北田氏はメディアのモノ性を、「これこれこのようなもの」と確定記述的には名指さない。
むしろ、固有名的に――ある種の虚焦点として――差しだすのみである。
リアリティ・テレビ、ポピュラー音楽、映画など、さまざまなメディアの受容空間・受容行為(受容の社会的文脈)が鮮やかに描きだされつつも、何かしら、いくばくかの落ち着きの悪さをわたしたちが感じるのは、そこで照準されているのが、記述・説明されたことではなく、されなかったこと=虚焦点にあるからなのだ。
ただし、言うまでもなく、描きだそうとされているのは、その虚焦点ではない。
虚焦点への接近(否定神学的な欲望)をある意味できっぱりと断念しつつも、そこから照準を外すことなく、どのようなメディア(論)の――あるいは『責任と正義』であればリベラリズムの――像を結んでいくことができるか。
そのような「可能性の中心」においてこそ、本書は読まれるべきだとわたしは思う。


とか言いながら、どうにもこの本を「メディア」ではなく、「テクスト」としてしか評せなかったなんだよな。
本書の装丁を担当された id:oxyfunk:20040703 さんのような話が少し織り交ぜられないかとは思ったのだが。