子育てと男女共同参画(2)

子ども数に影響を与える変数を、その影響力の強さの順に並べると、母親の年齢、健康な高齢女性の有無、夫が自営、世帯所得となる。…このモデルでは、家計所得の向上が出生率を引き上げる「所得効果」と、妻の従業が時間の価値上昇を通して子ども数を抑制する「代替効果」の検討が目指されている。所得効果は「世帯所得」で、代替効果は「本人(妻)の賃金所得」で測られているが、いずれの効果も、「本人(妻)の年齢」や「健康な高齢女性の有無」にくらべるときわめて微弱と言わざるを得ない。本人(妻)の年齢が高いことは、加齢効果・コーホート効果を通して子ども数を増やすことを自明の理とすれば、残っているのは「健康な高齢女性の有無」(三世代同居効果?)のみであり、ここでも重回帰分析モデルで設定した因果関係を素朴に信頼し、あえて政策提言に結びつけるなら、「健康な高齢女性と三世代同居できるようにすれば、子ども数は増える」といわなければならない(それが、論者たちが求めている解答であるかどうかは疑わしいけれども)。


子育てを(子どもにとっての)祖母に手伝ってもらえると、ずいぶんラクだろうことは自分自身の実感としてもうなづける。
わたしは三世代同居ではないが、先月、上の子が検査入院しているあいだ、妻が付き添いで病院に泊まり込むことになったため、父と母に下の子のめんどうを泊まり込みでみてもらった。
保育所に一時保育でみてもらうという手もなくはなかったが、そう簡単に空きがあるわけでなく、空きがあるところは自宅から遠かったりする。
それ以上に、偽らざる本音として、近親者にみてもらったほうが安心感がある。
しごとをするうえで時間的な融通もきく(何時までに迎えにいかねばという制約がない)。


個人的経験はともかくとして、農林漁業中心のいわゆる「ムラ社会」では、子育てを家庭よりも地域共同体が担う面が大きかったことは、広田照幸氏の著作でも指摘されているところだ。*1
「近代化」「都市化」が進むにつれて、こうした育児への地域共同体からのsocial support(と見えるのは「近代化」後の観点から翻ってみてのことだが)失われていく。
と同時に、子育ては家庭(にいる母親)が担うべきものという規範が強まっていく。
このとき、母親の負担はかなりきついものとなる。
家事・育児労働(時間)の負担という以上に、そこに自分(のもてる時間)のほぼすべてが縛られるという精神的負担がきつい。
たとえ三食昼寝付きという時間的余裕があったとしても(乳幼児をかかえる家はそう楽なものでないのは百も承知として、あえてそう仮定したとしても)、子どもに対する親という以外の顔をもてる機会=精神的息抜きの余地がきわめて少ない。
これは、自分自身が子どもを育ててみて、妻が子どもを育てるのをみていて(ちなみに妻は目下のところ専業主婦)、そして他のお母さんがたが子どもを育てるのを見聞して、痛感したところだ。


かつてであれば、女は家にいて子育てをするものというイデオロギー・規範の強さによって(それだけではないが)、そうした精神的きつさはあまりそれと意識せずにすんだかもしれない。
「健康な高齢女性との同居」という変数の寄与度は、そうしたきつさを軽減するsocial supportの重要性を示唆してはいないか。
むろん、これは、「ムラ」的規範意識の強さ→子どもは多いほうがいい(あるいは男の子が産まれるまで子どもを産みつづける)&老親と同居すべき、ということに媒介された見かけ上の相関かもしれないし*2、子だくさん→経済的にきびしいので三世代同居という逆向きの因果関係でも解釈しうるけれども*3


さしあたり、「健康な高齢女性との同居」という変数を、子育ての精神的きつさを軽減するsocial support――労働負担(時間)を軽減するのでなく――と解釈するとすれば、赤川論文の6節で指摘されている「男性の家事分担度と子ども数の間にはほとんど関係がない」という分析結果も、別様に解釈できるように思う。
註(6)でとりあげられているような、「男性の家事分担がもっと劇的に増加すれば、男性の家事分担と子ども数の間に相関がみられるようになるかもしれない」という批判に近いことを考えてみたいのだ。
男性(とか保育所とか)が家事や育児を分担しようとも、そのことは(有業女性の場合であれば)「家になるべく早く帰って、“母親”を果たさねば」という精神的きつさを軽減することに、必ずしも直結するものではない。
たとえば、子どもを夫に保育所にあずけて、しごとのあとに、友人と映画を見に行く・食事をするようなことができるかどうか、ということだ。
男性は、しごとのあとに呑みに行くことが許容され(「しごとのつきあいだよ」という言い訳つきにしても)、自身もそれほどうしろめたさを感じずにすむ。
その意味では、いわゆる「自分の自由になる時間」の精神的余地がある(しごとが忙しすぎてそんな時間はとてもないという物理的余地は別だ)。
子育てに、あるいは子どもに、精神的に束縛される――時間的にではなく――負担の軽減。
これに裨益するsocial supportが少ないのではないか。


子どもに「全面的」に束縛されることへの反選好。
人間関係の「局面」化という時代の動向のなかで、このことが出生率低下に結びついている面はないだろうか。
関係変化をひとつの研究テーマとするわたしにとって、この問題に対する関心は、この点にある。


女性の就業率曲線は、年齢を横軸にとると、M字型カーブを描く(子育ての年齢にあたる20代後半から30代前半にかけて凹む)。
このことは、女性が子どもは自分の手で育てたいと思っていることを示しているのか。
一面では確かにそうかもしれない。
しかし、一方で、女性の就業希望率の曲線は、実際就業率が凹を描くところで、凸を描く(両者をあわせると凸凹がならされる)。*4
この凸は、子育てに全面的に束縛されることからの離脱の欲求を示している可能性はないだろうか。


仮にそうだとして、このことはおそらく子育てや子ども自体を忌避することとは違う。
NHKの日本人の意識調査によれば、理想の家庭像として、「父親は一家の主人としての威厳をもち、母親は父親をもりたてて、心から尽くしている」という“夫唱婦随”型や、「父親は仕事に力を注ぎ、母親は任された家庭をしっかりと守っている」という“性役割分担”型が選ばれる割合は、それぞれ73年22%→03年13%、39%→15%に減少している。
しかし、「父親も母親も、自分の仕事や趣味をもっていて、それぞれ熱心に打ち込んでいる」という“夫婦自立”型の増加幅も、8%(15%→23%)にとどまる。
最も増えたのは、「父親はなにかと家庭のことにも気をつかい、母親も暖かい家庭づくりに専念している」という“家庭内協力”型だ(21%→46%)。
つまり、ある種の家庭志向(非個人志向)は高まっているものの、家庭(子ども)にばかり「全面的」に束縛されることは敬遠されるのではないか(あくまで現時点では検証前の仮説段階)。


わたしには、母親(あるいは父親)が子どもべったりになる密着型の子育て(乳幼児期だけだとしても)、子どもとの「全面的」関係が、少なくとも今の社会状況においては、あまりいいものだとは思えない。
わたしの子どもの通っている幼稚園は、おおよそ中の上の経済階層の家庭が多く、お母さんがたは専業主婦がほとんどである。
ある面ではすごく教育熱心で、子育て熱心だ。
ただ、ややもすれば、「子どもがわたしのすべて」的な感じを受けて、引いてしまうところがある。
あるとき、妻に「なんであんなに子どもがすべてになれるんだろう」と、別に答えを求めるともなくたずねたことがある。
妻いわく、「だって、主婦って自分が認められる機会がないもの。料理つくったって、きれいに掃除・洗濯したって、旦那なんて滅多に褒めるわけでなし。だから、子どもが褒められると、自分が認められた気になって、子どもが褒められるようにって一生懸命になるのよ。」
なるほど。
この説明には、恥ずかしながら、かなり肯かされるものがあった。
でも、他人に褒められるように、いい学校に入っていい成績がとれるように、子どもを育てるってのは、(それ自体が非難されるべき悪いことではないけれど)それだけでは所詮いわゆる「条件付き愛情」だろうとわたしには思える。
他者からの承認の機会を得るために、乳幼児期の子どもに「条件付き愛情」で接することが前面にたつのは、わたしにはいいことだとは思えない。
たとえ、百歩譲って、母性なるもの(「無条件」に愛情を子どもに注げること)がアプリオリに女性に備わっているものだとしても、今の社会状況で、女性を子育ての期間中だけでも家庭におしとどめておこうとすることは、その母性の発露をむしろゆがめてしまうように思える。


いずれにせよ、このような点からしても、「男女共同参画社会が必要だとすれば、それは、少子化を防止する/しないという効果や効率とは無関係に必要である」という赤川論文の主張に、わたしも賛成。
少子化問題は、もっぱら経済問題の文脈で語られることが多く(タイムリーにも日経新聞が23日月曜から朝刊で「未知なる家族」という連載を開始、今週の『エコノミスト』8月21日号も「日本経済 人口減少ショック」という特集)、そこから国家の衰退という文脈に流れ込んでいく。
そこにどうしても素朴な違和感を禁じ得ないのは、これまでのような右肩上がりの人口増=経済成長=みんなの幸せという等式が無条件に前提されているように思えることだ。
男女共同参画社会」は、少子化や経済成長などを介さず、ダイレクトに「(みんなの)幸せ」に照準して論じられるべきだろうし、少子化などの問題はそこから翻ってサブテーマとして論じられるべきだろう。


わたしは子どもを育てているから、子育てがきつい社会よりは子育てが楽しい社会のほうがいい。
だから、子育てが楽しくなるには社会的にどうすればいいのかをまず考えたい。
それを考えるうえで少子化問題をめぐる議論はおもしろいし、勉強になる。
しかし、これまでの研究では第一〜三次産業(従事者・地域)をひっくるめた分析しかなされていないのだろうか。
どう考えても、第一次産業中心の社会、第二次産業中心の社会、第三次産業中心の社会では、子どもを(たくさん)産む/産まないの選択にかかわる要因・変数は異なるだろうし、その因果関係の理路も異なるだろう。
とりあえず第三次産業(従事者)に絞った分析が、自分には関心のあるところだ。
そのなかでも、経済的要因の大きいケースとむしろ精神的要因の大きいケースがあるはず(周囲の働く「お母さん」がたを見ても、家計に迫られてという人もいるし、ベンツのりまわしてるのにパートに出てる人もいるし)。
単一のモデル(数量的モデル)におしこめずに、複数の並立的なモデル(子育てに影響する因果関係の理路)を考えて、実証的にどこまで追究できるかだな、問題は。
つうか、それ以上に問題なのは、家族社会学についての勉強が今のわたしにはまったくもって決定的に足りないことだが(笑)


う〜ん、夏休みももうじき終わっちゃうし、春休みの宿題として持ちこすことにしよう(笑)


最後に、(私も含め)社会調査屋さんが肝に銘じるべきことを赤川論文より抜粋。

実は、本当に考えてみなければならないのは、実証分析と政策提言の関係づけを問う論理、あえていえば「実証分析の倫理」というべき問題系ではないか。……。
第一に、実証分析の結果を愚直に政策提言に結びつけようとすれば、ときには、自らにとって都合の悪い、「耳の痛い」事実と向き合わざるを得なくなる。そのとき、「耳の痛い」事実であるからといって、みてみぬふりをし、「耳当たりのよい」事実ばかりを強調するのであれば、それはもはや実証分析の名に値しない。いっそのこと、実証分析にまったく依拠しないで政策提言を語るほうが、よほどまともな態度である。実証分析は、科学的な装いを自ら纏うがゆえに、その誠実性を厳しく問われなければならない*5
第二に、…実証分析は、現存する社会構造を前提にした分析である。あくまで既存の社会構造の中から、出生率の高さと相関する変数を探索しているわけである。これに対して政策提言は、既存の社会構造を変革して、あるべき未来予想図を提示しようとする。つまり実証分析は「過去志向」をその本質とするのに対し、政策提言はあくまで「未来志向」である。実証分析をもとに政策を提言する営みは、過去のなかに未来を探るというアクロバチックな作業にならざるをえない。そのことの限界には、自覚的であるべきだ。


*1: 『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書

*2: ただ、このあたりは重回帰分析の説明変数に「大都市に居住」が含まれているので、ある程度は調整済みとも考えうるが

*3: ただ、このあたりも説明変数に「世帯所得」が含まれているので、ある程度調整済みとも考えうる

*4: 柏木恵子『子どもという価値』中公新書、p.139

*5: この点について、わたしが自らに課している格率は、「仮説や予想をデータに裏切られることこそが調査屋の醍醐味であると思え」ということだ。自分の考えを組み替えるチャンスを、わざわざデータが提示してくれているわけだし。とはいえ、正直、分析結果が仮説にあてはまらないとがっかりするし、何とか仮説を支持する結果がでないか、いろいろ分析を変えてみることも多いのだが(笑)