南田さんのリプライへの応答

浅野智彦(編)『検証・若者の変貌』勁草書房の2章「若者の音楽生活の現在」についてです。昨日のエントリに対し、著者の南田さんよりリプライいただきました。
コメント欄でも述べたように、「仮設定された言説に対して答えることは無理です」というのは、おっしゃるとおりです。この点は不適切でした。「互いの音楽選好をリスペクトしつつも無関心」というのも、あくまで私個人の“仮設定”で、一般的な言説かどうかはわかりません。この仮設定を除いたうえで、私が気になっていた素朴な疑問点を改めて説明し直したいと思います。


要は「平準化」と一般に言われるときの意味あいに関する疑問です。
これに関して、南田さんは論文中で次のような問題として設定されています(強調部は引用者)。

こうしてまとめられる九〇年代。細分化の進行はおそらく事実である。…(略)…ただし、平準化が進行したのかどうか、それに関しては、いま一度検証の必要があると感じる。細分化(=音楽の受容が細かく分かれた)とは状況を説明する語彙だが、平準化(=横並びで差異を感じなくなった)とはリスナーの意識を説明する語彙だからである。つまり、細かく分かれた趣味のエリアがあちこちに点在している状況が若者文化の現在であるとして、そのエリアの間に差異の感覚はないのか、本当に過去の音源も現在の音源も並列的に消費されているのか、について検証してみる必要がある。

(p.47)

音楽へのコミットメント(度)によって「エリア」(細分化された音楽ジャンル)の間に「差異の感覚」(選好の違い)がみられることは、その後の調査データの分析によって明らかにされているとおりで、その点には異論ありません。
私の疑問は、はたして「平準化」と言われることの内実が「差異の感覚」に等しいかどうかということです。
先の問題設定がなされた箇所で「こうして」がリファーしているのは、次のような言説です(文中の「田中さん」は音楽雑誌『SNOOZER』の編集長、強調部は引用者)。

田中さんは、現代は「よい音楽とは何か」の基準が失われた時代だとみる。六〇年代なら「楽しさ」、七〇年代なら政治や社会性を反映した「リアリズム」、八〇年代半ばまでは「新しさ」といった価値があった。しかし、CDの時代になり、過去の音楽も最新の音楽も平等に並ぶようになると、それは意味を持たなくなる。その結果、カタログ的な音楽の見方や、生活と遊離した趣味人や好事家を相手にしたような音楽評論ばかりになったと感じている。(『週刊アエラ』一九九九年六月二一日号)

(p.47)

ここで言われている“「よい音楽とは何か」の基準”は“差異の感覚”に等しくありません。
南田さんの論文を読む限り、“差異の感覚”は個人的な好き嫌い(選好)以上のものである必要はないと思われます。
それに対して、“「よい音楽とは何か」の基準”は、個人の好き嫌いを超えて、社会的な価値付け=序列化を含みます。
「よい」という形容詞は多義的なので(ニーチェではありませんが)、個人的な好き嫌いの意味でも用いられますが、少なくとも先の引用部は明らかに社会的な価値付け(序列)の位相を含意しています。
南田さんの指摘されるように、「平準化…とはリスナーの意識を説明する語彙」ですが、それは社会的な「よい/悪い」の意識であって、個人的な「好き/嫌い」の意識とは必ずしも等しくない(一般的な言説のうえでも)と思うのです。


さて、音楽へのコミットメント度が、社会的な序列意識と連動するものであれば、つまり、音楽へのコミットメントの高い人の好む音楽は「よい音楽」というコンセンサスが成り立っていれば、この論文で示されている分析結果は、平準化を否定するものと言えるでしょう。
確かに、かつてはこのような連動が成り立っていたように思いますし、現在もなお、それがまったく連動しなくなったようには思えません。
しかし、このような連動が弱くなった可能性はないでしょうか。
たとえば、マンガ「オタク」はマンガへのコミットメント度の高い人でしょうが、オタクの好むマンガが「よいマンガ」という社会的なコンセンサスが必ずしも成り立っているとは思えません。
つまり、音楽へのコミットメント度が高い人が、音楽「オタク」として処理される傾向がいくばくか強まっているとすれば、平準化は進んでいる(完全に平準化されてはいないにせよ)可能性があります。
この点――コミットメント度と序列の連動――に関する議論が、本論文には見受けられなかったので(むろん紙幅の制限がありますから、ないものねだりなのは承知のうえですが)、平準化はどこまで否定できるものなんだろうかと感じた次第です。


南田さんの論文では、これら――コミットメント(関与)度と価値観・序列意識――があっさり等置されてしまっているきらいがあるように見受けられます。
たとえば「若者の消費行動は、細分化するとともに、価値の重みづけのない関与度の薄いものになっているとの指摘…は、多方面でなされている」(p.45)といったくだりです(強調部は引用者)。
この引用部で「多方面でなされている」指摘の例として挙げられている言説は、各個人にとっての音楽の重み・関与度ではなく、社会的な価値観の共有度について語っているように私は思います*1

稲増は「ドリカムはもはや特定の世代や階層の支持母体を持たない。ある時代や社会の共通の価値観、特定の世代の価値観を代弁しない。社会と音楽との蜜月関係がもう成立しない時代なのです」「現代の細分化された文化は、いくら大ヒットになっても浸透する力が弱い」とコメントしている。
また、宮台真司は、世代を通した連帯感がもはや喪失した現状を、ドリカムの歌世界に重ね合わせつつ、「ユーミンらが示してきた相互理解や自己の向上を前提とする恋愛ストーリーよりも、今はシンデレラ・エクスプレスのコマーシャルのような、一瞬の情景の方が好まれる。何ごとにも没入せず、ロールプレイングゲームのように断片を張り合わせて『快』を生み出し、自己の統一性、統合性を求めない現代の若者のアイデンティティのありようにも関係する。その反映が、一瞬の情景のパッチワークともいうべきドリカムの歌です」と、価値平準化の状況を指摘している。

(pp.45-6)

稲増さんにせよ宮台さんにせよ、焦点をあてているのは、社会的・世代的に価値観(序列化の軸)が共有されなくなってきたということであって、音楽(あるいは文化)への関与度が薄くなったということではないし、各個人がさまざまな音楽を「横並びで差異を感じなく」なり「並列的に消費」になったということでもない。
宮台さんの場合、確かに断片的で並列的な消費のことを言っていると読めますが、少なくとも個人的な快/不快(好き/嫌い)の関与度が弱まった(ことで「横並びで差異を感じなくなった」)とは逆のことを言っている。


なので、これらの言説に基づいて「平準化」という問題が設定されるのであれば、南田さんの論文は正面から答えきれていないような気が少しするのです。
個人がそれぞれの音楽(ジャンル)にたいしたこだわり(コミットメント)の差をもたなくなり、カタログ的に並んだ音楽のなかから、ちょっとした好き嫌いだけで適当に選んで消費するようになった、という意味での「平準化」言説であれば、それに対する正面きった批判・反証には確かになっていると思います。
また、引用されている言説にもそうした意味での「平準化」を指している面は大きいとは思いますが、それと同等かそれ以上に、社会的(世代的)な価値観の共有の低下によって、個々人の選好を序列化する軸が弱まったことを指している面も大きいのではないでしょうか。

*1:ちなみに、調査データの分析で用いられる音楽へのコミットメント尺度は、「音楽を聴くのが好きだ」「音楽は自分のライフスタイルだ」「特定の音楽についてくわしく知っている」「音楽を創るのが好きだ」という4項目から構成されており、あくまで個人(の生活)にとっての重要度・関与度を測るものと思われます。