「侮辱する」は発語内行為か(1)

id:gyodaikt:20040611さんのところの議論を受けて、言語行為論についてメモの走り書き。
もうちょっと丁寧に考える時間がほしいところだが、いつになるかわからんし。



発語内行為と発語媒介行為は、ある動作(motion)を行為(act)としてどう記述するかの区別である。
単一の動作を発語内行為/発語媒介行為いずれかに相互排他的に包摂するようなかたちの行為カテゴリーではない。
つまり、「あぶない!」という音声を発すること(発語行為)は、聞き手に警告するという発語内行為として記述しうると同時に、車をよけさせる(あるいは逆に驚かせてよけ損ねさせる)という発語媒介行為としても記述しうる。
単一の動作(出来事)がもちうる別の行為アスペクトaspect)といいかえてもよいだろう。
単一の物体を、形というアスペクトで記述しうると同時に、色というアスペクトでも記述しうるのと、同じことだ。
ただし、行為記述のしかたという水準上では、相互排他的である。
単一の行為を、発語内行為として記述し、かつ、発語媒介行為として記述することはできるが、発語内行為かつ発語媒介行為として記述することはできない。
「その物体は角張っており、かつ、赤い」と記述することはできても、「角張った赤色」と記述することがナンセンス=記述法の混乱・誤用にすぎないように。
異なる(行為)アスペクトを記述するということは、異なる用語系やコンテクストのもとで記述するということである。


少し別の例を追加しておこう。
ある背景(ground)=コンテクストのもとではアヒルにしか見えない図(figure)が、別の背景のもとではウサギにしか見えない。
そういった反転図形Aの場合、Aはアヒルの図としても記述でき、かつ、ウサギの図としても記述できる。
しかし、Aを「アヒルであると同時にウサギである図」として記述することはできない。
行為記述についても同様である。


さて、発語内行為を記述する用語系あるいはコンテクストと、発語媒介行為を記述するそれとの違いは何か。
発語内行為は、それがいかなる行為であるかの理解が話し手と聞き手で明白に共有される(Sperber&Wilsonの用語法を使うなら相互明白的(mutual manifest)である)行為として記述される。
いわば、「公然的」(public?)な行為として記述される。
そうしたしかたで記述されるのが発語内行為である。
一方、発語媒介行為の場合には、それがいかなる行為であるかの理解は、少なくとも事後的なかたちでしか共有されえない。
「あぶない!」と発語することによって、たとえ話し手が「聞き手に車をよけさせる」(行為として理解される)ことを意図したとしても、実際には聞き手が驚いて逆に車をよけ損ねてしまえば、“意図に反して”という但し書きつきであれ、「聞き手に車をよけ損ねさせる」という行為(として理解されること)になるからだ。
発語媒介行為は、こうした、いわば「偶有的」な行為として記述されるものである。


オースティンは、発語内行為の場合に、それがいかなる行為であるかを公然と知らしめうる=決定しうる要因をもっぱら「慣習」conventionにもとめた。
だからこそ、発語内行為(あるいは発語内効力)を言語的に明示しうる発語内動詞の存在などの「文法的規準」=言語的慣習を気にかけたわけだ。
しかし、実のところ、慣習によらずとも、それがいかなる行為であるかを公然と知らしめうるケースがあるように思える。
それが、たとえば「侮辱する」(insult)という言語行為である。


英語の語感の精確なところはネイティブでない私にはわからないが、日本語の「侮辱」の場合、それは単に、相手の心情を不快にさせるというような個人的効果(聞き手個人に対する効果)をねらった行為というよりは、むしろ、社会的関係のなかで公然と相手を貶め卑しめる行為だろう。
つまり、相手の心情をまったく不快にさせることも傷つけることもできなかったが、公的な場(教室だとか学会場だとか)で「侮辱する」行為としては発効・成立する場合があるように思える。


「あなたの研究は現実社会の問題解決に何の貢献もしないゴミですね」
(ん?それで?現実社会への貢献なぞ、はなから考えてないんですが、ダメすか)


こう述べた批判者は、相手の心情を害するのに「うまい・上手な」ことは言えなかった(だから相手を傷つけるという発語媒介行為をおこなうには失敗した)が、相手を侮辱するに「ふさわしい・適切な」ことは言っているように思える。
こうした、「上手か下手か」という基準=発語媒介行為、「適切か不適切か」という基準=発語内行為、という点からいっても、「侮辱する」は発語内行為であるように思えるのだ。


この場合、「侮辱する」という発語内行為を発効させている慣習とは何なのか。
たとえば、死刑を「宣告する」というような発語内行為の場合は、その宣告をする資格や手続きなどが社会的慣習・規約・制度によって定められているから、これなら思いあたるふしは多々ある。
しかし、「侮辱する」(悪口をいう)のに、何かふまえなくてはならない慣習=規約などというものがあるだろうか。
ある発言を「侮辱」たらしめるのに必要なのは、ほとんど何を言うかということしかないのではないか。
その発言内容はどんなことであってもいいが、そこから、話し手が聞き手の能力や人格を貶めようという意図をもっていることが「公然」とわかるものであること。
それが「侮辱する」ことが発効・成立するための最も重要な適切性条件ではないか。
つまり、「侮辱する」ことを成り立たせるもの(適切性条件)は、慣習よりむしろ意図の公然性であると思えるのだ。


それがどのような行為かを公然化する慣習(言語的慣習を含む)の存在は、発語内行為の1つの大きな特徴づけではあるが、本質的な特徴付けではおそらくない。
そうした確たる慣習が存在しなくとも、何らかのかたちで(行為の)意図が公然化されている(という記述が可能)ならば、それは発語内行為とみなしうる。
そもそも、デイヴィドソンの指摘するように、行為意図の公然化(発語内効力の確保)の役を、もっぱら慣習=規約に負わせようとするのは荷が重すぎるというものだ。

文を発話する際の非言語的目的――秘められた目的――を、発話に際しそれらの文が持つ字義的意味に関係づけるのが、規約であるならば、規約が何を為さねばならないかは、いまや比較的明らかである。規約は、秘められた目的が直接字義的意味を生ずるような事例を、話し手と聞き手双方によって理解されるような仕方で、さらにわざと同定可能な仕方で、選び出さねばならない。例えば、私が考えているのは、「きみのナスを食べなさい」という言葉を(日本語の正常な意味で)発する際に、この言葉およびこの発話が持つ発語内の力についての聞き手の理解を通じて、話し手が聞き手に彼のナスを食べさせようと意図するような事例である。そしてここでも、再び、そうした規約は、存在しないばかりでなく、そもそも存在し得ないようにすら思えるのである。というのも、私が論じたことに反して、たとえなんらかの規約が発話の持つ発語内の力を支配しているとしても、依頼や命令が遂行されるという意図との結びつきは、話し手が誠実であることを――すなわち、話し手が何を望んでおり、あるいは何を行おうと試みているような態度を示すにせよ、そのことを彼は実際に望み、行おうと試みている、ということを要求する。だが、誠実さをわれわれに告げる規約は存在し得ない、ということほど明白なことはないのである。

(『真理と解釈』p.309-10)


さて、では、慣習によらない意図の公然化とは、どのようなかたちで可能になるのか。
そこには2つのケースがありうる。
そこから話を、ハーバーマスのコミュニケーション的行為/戦略的行為の区別をめぐる問題につなげていきたいのだが、以下、次回(いつのことになるのかは不明)。