ケータイ的つながりの不安

いつのまにやら3月。1月末〆切の原稿をこのあいだようやく片づけたので、こそこそとはてなを再開してみたりする。いや、2月末〆切の原稿がまだ片づいていなかったりもするのだが...
以下は、片づけた原稿のなかからの抜粋。研究が一向に進まぬことを露呈するような原稿ではあるのだが、有斐閣から夏に刊行予定(あくまで予定)の井上・船津編『自己と他者の社会学(仮)』に掲載されますんで、よろしければ買ってくださいませ。

 それは裏をかえせば、絶え間なきつながりのなかでしか「私」の所在を感じとれないという不安でもあるだろう。中村[2003]*1の大学生調査では、「ひとりで夕食をたべるのは耐えられない」といった孤独耐性の低い者ほど、よく友だちとケータイメールをやりとりすることが確認されている。ここからは、ひとりでいることの所在なさ・不安が、つながりへの(中毒的な?)依存に結びついているようすがうかがえる。
 ただ、筆者の周囲の学生に聞き取りをおこなったところでは、「ひとりでいること自体よりも、それを知りあいに見られ、友だちのいないヤツと思われるのがイヤなのだ」という声がいくつかあった。つまり、単なる孤独への不安ではなく、孤独に対する他者の視線への不安だというのである。そこで、(a)まわりにだれもいない状況(自宅や下宿)で、ひとりでいるのがつらいかどうか、(b)知りあいがみているかもしれない状況(大学のキャンパス)で、ひとりでいるときにまわりの視線が気になるかどうか、に質問をわけたアンケートをつくり、2004年12月に大学生228名を対象に簡単な調査をおこなってみた。

表3 孤独不安とケータイメール頻度との関連
(a)自宅でひとり つらい 84通/週
つらくない 73通/週
(b)大学でひとり まわりの目が気になる 86通/週
気にならない 59通/週

 表3は、これら(a)(b)に対する答えによって、友人へのメール送信数の平均値を計算した結果である。(a)の状況で、孤独をつらく感じる者は、そうでない者よりもメール頻度が低いが、統計学的には誤差の範囲内で、意味のある差ではない。一方、(b)の状況では、意味のある差がみられ(t検定で5%水準)*2、まわりの目が気になる者のほうが友人とメールをよくやりとりする傾向にある。
 調査対象が限られているため、あまり確かなことはいえないが、この結果が示しているのは、身のまわりの他者からの(潜在的な)視線が、ある種強迫的に、人を絶え間なきつながりへと駆りたてている可能性があるということだ。つながることを求めるがゆえに、つながる相手となりうる身近な他者の目に敏感になる。その他者の目がまた、つながることを強迫するようにはたらく。そして、そのつながりへの強迫がまた、他者の目を……。このような循環的なプロセスのもとで、つながりは自らを再生産していくことになる。


昨年の講義でも、このあたりの話が一番ウケがよかった。講義の感想を書かせたシートから、反応を拾ってみると。

  • メールを打つ、送る(周りの目が気になるYESの人が)が多いのは、うんうんと思いました。メールを打つ(ケータイをいじってる)というフリ・姿も周りの目に勝つための防御策なんではないでしょうか。
  • 授業での例に挙げられていたケータイや食堂で一人で食べることなど、身近な例であったので、考えさせられる内容でした。私は孤独感を感じることが多く、他人の眼を感じてメールをすることがよくあります。「あいつには友達おらんねや」っておもわれるのが耐えられないからです。授業中に何度もギクリとしました。
  • 今日の講義で、「一人で夕食を食べるのが耐えられない」という項目で周りの目を気にするというのがありましたが、私はそれにあてはまります。一人でご飯を食べるのは平気なのですが、生協や関前で一人で食べることは勇気がいります。それは、「一人で食べて、友達おらんのちゃうん」と思われるのも嫌だし、周りは楽しくしゃべりながら食べているのに私は一人、ということもさみしいからです*3。だから、梅田の吉牛とかは平気です。かといって、メールはそんなに使いませんが…。
  • ちなみに私も大学の生協などで一人でごはんを食べるのは嫌だし、したことありません。
  • 今日の講義での生協で1人でごはんを食べるということは本当に他人の目がきになり、きっとメールをしてごまかして食べるんだろうと思いました。
  • 今日の授業のつながってはいるけどつながり不安が残る...とか、調査アンケートの結果は、納得させられました。
  • 今の若者は常に誰かとつながっていたいという意識が非常に強いと思う。やはり、自分も誰かにメールをして、返事が返って来ないと不安になるし、教室に一人でいると、周りの目線が気になって仕方なくなる。
  • たしかに、一人で行動することは別に恥ずかしくありませんが、それを見られるのはイヤなときがあります。梅田や三ノ宮を一人で歩くのは平気ですが、時々学校を一人で歩いているといやな気分になるときがあります。ほとんど平気なんですけど。
  • 今日の話のように、学校でひとりで食事をするのは私もやや抵抗感があります。女子控え室では平気ですが、食堂ではあまり食事したくないです。最近そういう感覚になることを恥ずかしく感じることがあります。
  • この「つながらなくてはならない」の呪縛は、たしかに感じることがあります。それ自体を感じるというより、何かふっきれた時にすごく気がラクになるのです。そういう時に、「あぁ何にしばられてるんやろ、自分」とバカバカしく思います。で、それがふっきれると、生協でひとりでゴハンもできるようになります。
  • 今日の授業は、私がまさしく感じていたことでした。一人で学食に行く時は、まず知り合いの顔を探します。一緒に食べるわけではありません。「一人でごはんを食べる自分」を見る人がいないかどうかです。そんなことをしてしまうことは自分でもずっと謎でした。でも私はこれからも無意識にしてしまうだろうことは確実です。
  • 今日挙げられていた、“話す友達によってキャラが違う”ということは自分にとって当てはまることである。その事を「なぜだろう…」と自己嫌悪が起こる事もしばしばあった。今日の講義を受けて、たしかに孤独不安の裏返しとして起こっている事かもしれないと感じた。
  • これからの社会において、自己のブレというか、自己の拡散は、ますます進むものと思います。正直個人的な不安として、これから社会人になってさらに人間関係に幅が出ると、それに今の様な方法でついていけるのかと思ってしまいます。様々な顔をつかいわけながらそれを客観視する様なスタンスでいくと、今にその矛盾に耐え切れなくなるような気がするのです。
  • 私は確かなつながりが築けていると思う人とは一ヶ月、それ以上連絡を取らなくても何の不安も湧いてきません。しかし、関係が曖昧な人、その上それほど仲が良いわけでもない人ほどこまめに連絡を取ります。それも何だかおかしな話だなと思いました。
  • 私の友人で、1人暮らしの部屋にいるのが寂しく耐えられなくてオンラインゲームにはまり、中毒になったせいで留年、大学を退学した子がいました。彼女は「ネット上で待っててくれる人がいるのが嬉しかった」と言っていたのですが、「つながり」のループに入り込んでしまった一人なのかもしれないと、この講義を聞いていて思いました。
  • 私もホームページを持っていますが、私はgoogleから飛べないようなサイトにしています。完全内輪でやってます。私は、何かおもしろいことを書いてみんなをたのしませようと思ってサイトを運営しています。それでも返答や反応がないとすごくさみしです。内輪なのに。会った時に「見てくれてる?」と聞いて、どうしても確認してしまいます。
  • 今日の授業の中で、ブログを開設する理由についてですが、この前友人に聞かれて一つ疑問に思ったことがあります。その友人の友人がブログを始めることになり、「見てね」と言われ、アドレスを教えられたそうです。私の友人は、webに日記を公開する気持ちも、オフラインの友人に日記を見てもらうという気持ちがいっさい分からない、見たいとも思わないと言っていました。ブログは、知らない人とつながる一つの手段になることは分かるのですが、知っている人に見てもらってどんな利益があるのかいまいち私には理解できません。これも自己不安の一種の表れなのかなとも思うのですが。


高校までの密閉度の高い関係性のなかで、こうした孤独への被視線不安を感じるのは、わかる気がするのだが、大学ってとこはもう少しゆるゆるとしたオープンかつ流動的な関係性であるはず。にもかかわらず、視線に絡みとられているところが興味深い*4
この「“つながっていない”すがたを見られているかもしれない不安」は、形式的にはフーコー的な「見られているかもしれない不安」と同型だが、まなざしを送ってくる他者は、見知らぬ他者――というより抽象的・超越的な他者――の水準に位置しておらず、あくまで具体的・経験的な他者の水準にある。
この位相転換のもつ含意を、さて、どう考えるか。

*1: 中村功[2003],「携帯メールと孤独」『松山大学論集』14巻6号

*2: 無作為抽出でもない学生調査で検定かけて何の意味がある?とか言うな。さらにまた、より厳しくノンパラメトリックな順位和検定をかけると、p=.26と有意差は消えてしまい、あてにならないこと夥しくはあるのだが。

*3: 言っていることは、孤独の被視不安と疎外感に対応している。ちなみに疎外恐怖もメール頻度と相関することが複数の調査で確認されている。

*4: ただこれは関大の学生文化・気質ならではのものではないか、という声もある。確かに、概して関大生は友だちといつも楽しそうにしている。関学同志社立命も、キャンパスの雰囲気をみるかぎり、こういう「楽しそう」度はより低い。他大学でも調査してみねば。