「侮辱する」は発語内行為か(3)


さて、ハーバーマスの理論は、発語内行為を理念型化したコミュニケーション的行為について、その行為同定がある種の第三者的(三人称的)な審級――慣習がそこに位置しうるような――によって可能である、という構図を前提としている。
しかし、ある言語行為を特定の発語内行為(公然化された・公共的publicな行為)として一意に同定し、前景化することは必ずしもできない*1
たとえ、受講生Sが大あくびする代わりに「つまらない!」と叫んだとしても(言語にうったえて行為をなしたとしても)、講師Aは「『つまらない』と述べることによって君はその発話の妥当性の主張(Geltungsanspruch)を掲げたのだから、私はその妥当性を小一時間問い質す権利があり、君はそれに応える責任がある」と応答=責任(responsi-bility)を強要できるとは限らない。
受講生Sは、自らのなした発話の聞き手の立場から、「え〜っ、センセイ、私の『つまらない』って発話を“退屈だ”って意味にとったんですかあ?英語じゃ『バッド』を“かっちょええ”って意味で使うし、ほら、若者語の『ありえない』も“すげえ”っていい意味で使うじゃないっすか、そういうつもり(意図)で私も『つまらない!』って言ったんですけど」という解釈を提示しうる。
この受講生Sの発話解釈(“賞賛する”という言語行為としての同定)と、講師Aの発話解釈(“侮辱する”という言語行為としての同定)のいずれが適切(felicitous)であるかは、最終的には、聞き手たち――受講生S(発話者)もまた自らの発話の聞き手として解釈を提示している――の、個々の具体的な状況やコンテクストを勘案した交渉によって、折り合いをつける(あるいはつけない)しかない。
講師Aが、発話の状況とコンテクストを勘案し、受講生Sがそのような行為意図をもちうると合理的(rational)に認めうるならば、講師Aは当初の発話解釈で用いた事前理論(prior theory)を変更し、新たな当座理論(passing theory)でもって発話を解釈しなおすことになるだろう*2
その解釈変更に、慣習(という三人称的な審級)は本質的なかかわりをもたないのである*3


こうした発話解釈の齟齬や事後的変更がおこりうるのは、人間のコミュニケーションの本質――単なる機械的な「情報伝達」ではない「コミュニケーション」らしさ――に由来するものであった。
したがって、私には、どうしてもハーバーマスがコミュニケーションの本質をとらえそこねているような気がしてならない。
「話し手」を慣習という三人称的な審級によって権威づけ、このような発話解釈の齟齬や事後的変更*4、「聞き手どうし」の折衝の可能性をコミュニケーション理論のなかから排除するのは、暴力的にすら思える。
コミュニケーション的合理性と認知的・道具的合理性を峻別することは、それらの連続性や共犯性(?)を見逃すことにつながらないか。


「侮辱する」行為は、しばしば公然となされる。
しかし、「侮辱」という行為を適切に成立させる慣習的条件なるものは、「約束」や「死刑宣告」のそれほど想定しやすいものではない。
「侮辱」という行為は、慣習よりむしろ、どのような意図をもち、その意図がどれほど公然的に認知されうる状況であるかという条件によって成立するものだろう。
そもそも発語内行為=公然化された言語行為(というアスペクト*5の同定に、慣習が本質的なかかわりをもつものではないのならば、意図された(発語媒介的)効果およびその意図が、通例的にどれほど公然的であると認知されるか、という“通例”的な(“慣習”的でなく)程度問題でしかないのではないか。
発語内行為の適切性条件なるものは、その通例を最大公約数的に抽出したものにすぎないのではないか。
発語内行為と発語媒介行為は、記述のうえで、区別される行為アスペクトではあるけれども、それが成立するための条件とは、程度の差でしかないのかもしれない。


ある言語行為を、公然化された行為=発語内行為として記述するときには、それを成立せしめる条件は適切性条件のうちに囲い込まれる。
そして、その適切性条件によって担保されえない(発語媒介的)効果――すなわち偶有的な条件によって成否が左右される効果――が切り出され、発語媒介行為の記述に組み込まれる。
しかし、個々の具体的な言語行為は、たやすく発語内行為から発語媒介行為へとアスペクト転換しうる。
記述のしかたによって、どこからどこまでが公然的に意図された効果=発語内行為を構成する効果で/どこからどこまでが非公然的に意図された(あるいは意図されなかった)効果=発語媒介行為であるか、が変わるのである。


ハーバーマスはこのようなゆらぎを認めない。
実際問題として言語行為が偶さか行為アスペクトのゆらぎをみせることを認めないのではなく、理念型としてコミュニケーション的行為/戦略的行為をたてる(発語内行為/発語媒介行為の区別に準じて)際に、認めないのである。
発語内行為とは公然的かつ(適切性条件のもとで)決定的・必然的に成立する行為であり、発語媒介行為とは非公然的かつ偶有的に成立する行為として、峻別される。
しかし、公然的−非公然的という軸と、必然的−偶有的という軸は、おおむね連動はするものの異なる軸である。
「侮辱する」という言語行為は、公然的になされるけれども、その意図する効果(相手の心情を傷つけるなり、社会的威信を貶めるなり)が成就するかどうかは、偶有的な条件に左右されるところが大きい。
実は、「約束する」とか「(死刑を)宣告する」とかの言語行為だって、偶有的な条件に左右されるところがあるのだけれども、そこには多く慣習的な条件が含まれているため、それらの条件は慣習的・制度的にコントローラブル(決定可能)な「適切性条件」とみなされてしまう。
そこに、公然的=必然的(決定的)、非公然的=偶有的というセットを自然化する錯視が生じる。
この錯視のもとに展開されたのが、コミュニケーション的行為の理論であるのではないか。


だが、言語行為が行為アスペクトのゆらぎをみせる(あるいは重ね合わせられる)ことは、コミュニケーションの本質である。
そこをスルーしてしまうハーバーマスに、私は違和感をおぼえるのだ。
なんだか論点がとっちらかって、混乱してるので、整理して紀要論文にでもまとめるか(泣)
すでに、ルーマンデリダ(「署名 出来事 コンテクスト」)や北田さん(『責正』1章)が書いてることに、はたして付け加えられるところがどれだけあるか、はなはだ心許ないけど(泣泣泣)

*1: 以下の例とは別途、《1》行為記述において、(α)「伝達意図をともなう行為」は、原理的に(β)「アンチ伝達意図をともなわない行為」に転化しうる可能性をもっているし、「アンチ伝達意図をともなわない行為」もまた(γ)「伝達and/or情報意図なき行為・ふるまい」に転化しうる可能性をもつ、《2》(α)〜(γ)の記述のいずれが適切であるかは、聞き手および(聞き手としての)話し手たちの、個々の具体的な状況における交渉によって、折り合う(あるいは折り合わない)しかない、という事情もある

*2: D. Davidson, A Nice Derangement of Epitaphs, Truth and Interpretation: Perspectives on the Philosophy of Donald Davidson, 1986, Blackwell

*3: 大澤氏の指摘するように「受け手は、何でも好き勝手に、行為者の意図を想定できるわけではない。……そこにはかなり強い条件が効いていて、受け手は、何でも自由に意図を行為者に投射できるわけではない」(大澤・北田「リベラリズムと現代世界」『InterCommunication』no.49, p.93)。その条件として「慣習」が有効に機能しうるのは当然だが、「慣習」なくしてそうした意図の絞り込みがうまくなしえないわけでは、おそらくない。その意味(必要条件ではないという意味)において、慣習は意図の絞り込み(行為者の信念と発話の意味の同定)に本質的なかかわりをもたない

*4: ハーバーマスは「話し手が聞き手に…発語内の力を及ぼすことができるのは、…再検証可能な(nachprufbar)〔発話の〕妥当性の主張と結びついて言語行為特有の責任が生じるから」という言いかたもするが(Was heisst Universalpragmatik?, Sprachpragmatik und Philosophie, 1976, Suhrkamp, p.251)、そのnachprufbarがここでいうような「事後的変更」のことを射程に含めたものだとはやはり思えない

*5: 「発語内行為」が(慣習によって成立する言語行為のアスペクトではなく)公然化された言語行為というアスペクトを指すものであるならば、“侮辱する”という発語内行為をラベリングする発語内動詞が言語慣習のうちに用意されていなくても必ずしも問題はあるまい