ポピュラーなものと公的なもののコンフリクト (10)

 アレントのいう「公的」の、もう一つの意味もみておこう(Arendt[1958=1994:78f])。

 第二に、「公的(パブリック)」という用語は、世界そのものを意味している。なぜなら、世界とは、私たちすべての者に共通するものであり、私たちが私的に所有している場所とは異なるからである。しかし、ここでいう世界とは地球とか自然のことではない。地球とか自然は、人びとがその中を動き、有機的生命の一般的条件となっている限定的な空間にすぎない。むしろ、ここでいう世界は、人間の工作物や人間の手が作った製作物に結びついており、さらにこの人工的な世界に共生している人びとの間で進行する事象に結びついている。世界の中に共生するというのは、本質的には、ちょうど、テーブルがその周りに坐っている人びとの真中(ビトゥイーン)に位置しているように、事物の世界がそれを共有している人びとの真中(ビトゥイーン)にあるということを意味する。つまり、世界は、すべての介在者(イン・ビトゥイーン)と同じように、人びとを結びつけると同時に人びとを分離させている。

 ここで採られている空間的メタファは、図(a)のようなものだ。テーブル(=世界、公的なもの)をあいだにして(between)、互いが向き合っている。だから、テーブルの向こうには、互いの姿が「現われ」る。


 それに対して、ポピュラーなものにかかわる構図は、図(b)のようになるだろう。テーブルはここでも、「万人に見られ、聞かれ」る場ではある。しかし、それは互いのあいだではなく、前にある。だから、テーブルの向こうに互いの姿が「現われ」ることはない。ここでのテーブルは、「人びとを結びつける」ものでも「人びとを分離させ」るものでもない。人びとはテーブルを前にして、いっしょにいる、そばにいるだけだ。
 テーブルをテレビに置き換えたほうが、やはりわかりやすいかもしれない。人びとはテレビを前にして、いっしょにいる。しかし、テレビのなかに、いっしょにいる人の姿(アピアランス)はない。ただ、「いっしょにいる」ことだけがある。こうした「いっしょにいる」ことをも、何かしらの結びつき、つながり、関係性と呼ぶのだとすれば、それはある種のきわめて純粋な関係性――ギデンズのいうそれとは別の意味での(Giddens[1992=1995]*1)――であるだろう*2

*1:Giddens, A., 1995, The Transformation of Intimacy, Polity Press. =1995 松尾精文・松川昭子訳『親密性の変容』而立書房.

*2:このようにして取りだされた「関係性」は、アレントのいう「社会的」なるもの(Arendt[1958=1994:44f, 59-74, 96-103])に近接するように思う。

ポピュラーなものと公的なもののコンフリクト (9)

 ポピュラーなものにおける「みんな」は、決して積極的に姿を現しえない「相互受動的な主体」を含む。そのように想像された共同体である。だれに対しても開かれている――公共性の第一の意味――ということは、相互受動的な主体に(も)開かれているということだからだ*1
 ここにおいて、ポピュラー性は、公共性と、その第一の意味を共有しつつ、クリティカルに対立する。ハンナ・アレントの公的なものをめぐる議論を参照しながら、その対立をみてみることにしよう。アレントは、「「公的(パブリック)」という用語は、密接に関連してはいるが完全に同じではないある二つの現象を意味している」として(念のため断っておくと、この二つの意味は、斉藤[2000]の整理した公共性の三つの意味とはまったく別のものである)、その一つを次のように説明している(Arendt[1958=1994:75]*2)。

 第一にそれは、公に現われるものはすべて、万人によって見られ、聞かれ、可能な限り最も広く公示されるということを意味する。私たちにとっては、現われ(アピアランス)がリアリティを形成する。この現われというのは、他人によっても私たちによっても、見られ、聞かれるなにものかである。見られ、聞かれるものから生まれるリアリティにくらべると、内奥の生活の最も大きな力、たとえば、魂の情熱、精神の思想、感覚の喜びのようなものでさえ、それらが、いわば公的な現われに適合するように一つの形に転形され、非私人化(デプリヴァタイズ)され、非個人化(インディヴィデュアライズ)されない限りは、不確かで、影のような類いの存在にすぎない。

 ここでアレントが、「万人に」開かれている公的なものへの参与者として、相互能動的な主体を想定していることは、明らかだろう。それに対して、ポピュラーなものへの参与者は、「公的な現われ」を欠いた「不確かで、影のような類いの存在」である。
 ポピュラーなものにおける「みんな」と、公的なものにおける「みんな」は、この点において異なる。つまり相互受動的か相互能動的かが違うのである。

*1:ネットも「だれに対しても開かれている」のだから、ネット・コミュニティもまた実のところ相互受動的な主体を含む共同体である。先に記したように相互能動的な共同体とされがちなのはイメージ上の独断にすぎない。実情としても、掲示板などのネット・コミュニティには、読むだけのメンバー(ROM: Read Only Member)=姿を現さない主体のほうが多い。

*2:Arendt, H., 1958, The Human Condition, University of Chicago Press. =1994 志水速雄訳『人間の条件』筑摩書房ちくま学芸文庫).

ポピュラーなものと公的なもののコンフリクト (8)

 ポピュラーなものにおける、見知らぬ匿名的な「みんな」を想像するということは、徹底的に受動的な(passive)、受動的でしかありえない者(たちの共同体)を想像するということでもある。なぜなら、能動的である者は、その姿を現す――顕名的である――ことによってしか、能動的であると知られえないからだ。しばしばネット・コミュニティは相互行為する=相互能動的(inter-active)な主体によって形作られるものとイメージされるが、それに対置させるとすれば、ポピュラーなものにおける「みんな」は、いわば「相互受動的(inter-passive)な主体」(Zizek[1998]*1*2からなるのだ。
 ポピュラー性の最前線を戦いぬいてきた日本のテレビ、特にバラエティ番組は、90年代以降、この相互受動性(の共同体)を積極的に暗示するようになってきた。視聴者(=「相互受動的な主体」)の反応を代弁するかのように、画面に氾濫するテロップ。収録された映像を、スタジオで見る視聴者代理としてのタレントたち。本来の視聴者はそれを、すなわち「テレビを主題化したテレビ番組を視聴する視聴者を」視聴するのであり、テレビで何かを視るのではなく、テレビというメディアそれ自体を、いうならば「純粋テレビ」を視るのである(北田暁大[2005:158]*3*4 。それはまた、ポピュラーなものの、ある種の純粋な形態でもあるのではないか。



→つづく

*1:Zizek, S., 1998, The Interpassive Subject, Centre Georges Pompidou Traverses http://www.lacan.com/zizek-pompidou.htm

*2:Zizekはこの論文のなかで、たとえばゲームとユーザのinteractivityに対置させるような形でinterpassivityを性格づけている。本稿ではむしろ人と人との(ユーザとユーザとの)interactivity - interpassivity を考えている。

*3:北田暁大,2005,『嗤う日本の「ナショナリズム」』,日本放送出版協会

*4:しかし、徹底的に受動的である受け手(視聴者)そのものが、画面のなかにその姿を現すはずがない。画面に現れるのは、せいぜいその「亡霊」であろう。そのことはおそらく、それを視る私たちが「「人間」たることを欲求するゾンビ」(北田[2005:226])であることに対応している。

ポピュラーなものと公的なもののコンフリクト (7)

 アンダーソンは、新聞や出版を例にとり、「想像の共同体」を、公共性の第一の意味における「みんな」=国民・国家に接続していく。ここではそれとは別の、ポピュラー性における「みんな」への接続点を、ラジオを例に探ってみよう。かつて平野秀秋中野収[1975:102]*1は、ラジオの深夜放送の聴取者たちのすがたに、次のような共同性をみた。

 八〇万深夜放送族はそれぞれの閉空間=密室の中にある種の情報だけを入れる。その情報を媒介にして放送局と結合する。同じような無数の密室が同時に放送局と結びつく。個々の密室は、自分だけが放送局と結びついているという実感を持ち――深夜放送で読まれる投書を思い出していただきたい――放送局を中心に無数の密室がネットワークを形成しているなどと思いも及ばない。つまり主観的には〈連帯〉しないが、何かを共有しながら一つの宇宙を形成している。客観的には〈連帯〉している。

 平野・中野は、聴取者それぞれは「自分だけが放送局と結びついている」と感じ、「主観的には〈連帯〉しない」と言う。そうだろうか。聴取者は、自分以外の見知らぬだれかも、その放送を聴いていること、「放送局と結びついている」ことを知っているはずだ。なぜなら、その放送内容は、電話のような個人宛てのパーソナルメディアではなく、ラジオというだれしもに開かれたマスメディアによって届けられたのだから。
 その見知らぬだれかに、見知らぬ「みんな」に、個々の聴取者はつながり(「連帯」)を、親しみを、どこかしら何かしら感じてもいるのではないか。少なくとも、その深夜放送を聴かない、好まない人たちに比べれば。見知らぬだれかへの、見知らぬ「みんな」への親しみ。ポピュラーなものに感じとられる親しみは、おそらくそれと本質的に連関している。
 ポピュラーなものとは、「みんな」に親しまれ、好まれるもののことである、と述べた(それに対して、公的なものは親しみや好き嫌いとは無関係irrelevantであった)。だが、それ以上に、ポピュラーなものとは、それを好きである「みんな」が好きであるような、そういうもののことであるのではないか。
 あなたはあるアイドルのことが好きだ、としよう。彼/彼女はとても人気のあるアイドルだが、彼/彼女のファンのことは好きではない。「みんな」は自分とはまったく別の理由で好きなだけだからだ。「みんな」は彼/彼女の真の魅力をまったくわかっていない。このとき、あなたにとって、彼/彼女は決してポピュラーな存在ではないだろう。ポピュラーなアイドルとしての彼/彼女は、同姓同名の別人に近いようなものではないか。
 「みんな」がそれを好きであることが、自分がそれを好きであることの理由(の一部)をなす。そういう人たちからなる「みんな」の好きなもの。それが、ポピュラーなものなのではないか。

*1:平野秀秋中野収,1975,『コピー体験の文化――孤独な群衆の後裔』,時事通信社

ポピュラーなものと公的なもののコンフリクト (6)

 マスメディアは、単に「広く一般に」メッセージを伝えるメディアであるのではない。そのメッセージが「広く一般に」伝えられること自体も、メタメッセージとして伝えている。これは案外マスコミ論などでも見過ごされがちなポイントである。
 何年か前、「見えてもいいブラ」という商品のテレビCMが流されたことがある。購買層として想定されるのは若い女性だから、そこにセグメントされたメディア(女性誌やダイレクトメールなど)で広告したほうが、ある意味では効率的だっただろう。だが、それでは「見えてもいいブラ」になりえない。それを買うことなどないようなオジサンたちにも、「広く一般に」知られていなければ、見えてはまずいブラと同じ視線にさらされてしまうだろう。「見えてもいいブラ」というメッセージが「広く一般に」知られること自体が知られてはじめて、その商品は「見えてもいいブラ」になりうるのだ*1
 話が少し逸れた。本筋に戻ろう。

*1:「見えてもいいブラ」はマスメディアのマスメディア性がつくりだすという話は、こちらのブログ(→Is LIFE short? blog)でずいぶん前に書かれていて、「なるほど、これはいい例だ、講義で使わせてもらおう」と思った記憶がある(が、そのエントリがどこにあるのか探し当てられなかった)。

ポピュラーなものと公的なもののコンフリクト (5)

 このように、(好きなものの共通性を介して)見知らぬだれかに開かれていることは、ポピュラーなものにおける「みんな」が、ある種の「想像の共同体」であることを物語る。その想像力の近代的なありようを、ベネディクト・アンダーソンは次のように描写している(Anderson[1983=1997:62]*1)。

 我々は、ある特定の朝刊や夕刊が、圧倒的に、あの日ではなくこの日の、何時から何時までのあいだに、消費されるだろうことを知っている。……。このマス・セレモニーの意義――ヘーゲルは、近代人には新聞が朝の礼拝の代わりになったと言っている――は逆説的である。それはひそかに沈黙のうちに頭蓋骨の中で行われる。しかし、この沈黙の聖餐式に参加する人々は、それぞれ、彼の行っているセレモニーが、数千(あるいは数百万)の人々、その存在については揺るぎない自信をもっていても、それでは一体どんな人々であるかについてはまったく知らない、そういう人々によって、同時に模写されていることをよく知っている。そしてさらに、このセレモニーは、毎日あるいは半日毎に、暦年を通して、ひっきりなしに繰り返される。世俗的な歴史の読者は、彼の新聞と寸分違わぬ複製が、地下鉄や、床屋や、隣近所で消費されるのを見て、想像世界が日常生活に目に見えるかたちで根ざしていることを絶えず保証される。……虚構は静かに、また絶えず、現実に滲み出し、近代国民の品質証明、匿名の共同体へのあのすばらしい確信を創り出しているのである。

 アンダーソンがここに見出しているのはナショナリズムもしくは国民国家の起源であるが、これはまたポピュラー性もしくはポピュラー性においてとらえられた人びと(=人口population*2)の起源でもあるだろう。つまり、公共性の第一の意味における「みんな」すなわち国民もまた、ポピュラーなものに現れる「みんな」と――起源を一にするという点で――無縁ではない。が、いまは別の点に眼を向けたい。
 それは、ここで共同性をうみだしているのが、新聞(記事)という内容・対象の共通性ではなく、新聞を読むという形式・ふるまいの共通性であることだ。新聞に書かれているのは、どんなことであってもよい。それを読んでいるのが自分だけではないと知られる・確信できること。そこに「想像の共同体」はうまれる。

*1:Anderson, B., 1983, Imagined Communities, Verso. =1997 白石さや・白石隆訳『増補 想像の共同体』,NTT出版

*2:同書の第X章においても、「相互に連関しつつこうした想像力を形成した」もののひとつとして、人口調査(census)が取りあげられている。

公的なものとポピュラーなもののコンフリクト (4)

 それと関連して重要なのは、次のことである。ポピュラー性の場合は、好きなものの共通性が「みんな」を定義する(共通性→「みんな」)。一方、公共性の場合は、「みんな」がまず定まらないと何が共通かも決まらない(「みんな」→共通性)。機序が逆なのだ。
 このことは、先の第三の意味における「みんな」にもかかわってくる。斉藤[同上書:x]の指摘するように、「「共通していること」はほとんどの場合「公共性」を一定の範囲に制限せざるをえず、「閉ざされていないこと」と衝突せざるをえない局面をもつ」。他方、ポピュラー性における「みんな」は、それを好きであること以外にメンバーシップの制限がない。だれに対しても開かれている。ポピュラーなものに媒介された共同性は、その点では、きわめて開かれた共同性である。おかしな表現になるが、ポピュラーなものは、公共性の第三の意味(と第二の意味)において、公的なもの以上に公的とも言えよう。



→つづく