公的なものとポピュラーなもののコンフリクト (3)

 公的な(public)ものに限っても、そこで想定される「みんな」は必ずしも一義的ではない。それは、公共性(publicness)という語の多義性に対応している。斉藤純一[2000:viii-ix]*1は、その意味あいを、次の三つに大別している。

 第一に、国家に関係する公的な(official)ものという意味。この意味での「公共性」は、国家が法や政策などを通じて国民に対しておこなう活動を指す。たとえば、公共事業、公共投資公的資金、公教育、公安などの言葉はこのカテゴリーに含まれる。対比されるのは民間における私人の活動である。……。/第二に、特定の誰かにではなく、すべての人びとに関係する共通のもの(common)という意味。この意味での「公共性」は、共通の利益・財産、共通に妥当すべき規範、共通の関心事などを指す。公共の福祉、公益、公共の秩序、公共心などの言葉はこのカテゴリーに含まれる。この場合に対比されるのは、私権、私利・私益、私心などである。……。/第三に、誰に対しても開かれている(open)という意味。この意味での「公共性」は、誰もがアクセスすることを拒まれない空間や情報などを指す。公然、情報公開、公園などの言葉はこのカテゴリーに含まれるだろう。この場合には、秘密、プライヴァシーなどと対比される。

 第一の意味における「みんな」は、国家の成員(つまり国民)すべてである。第二の意味では、国家に限らない何かしらの社会集団や共同体の「みんな」、第三の意味では、社会集団や共同体すら問わない、場合によっては異星人すら含みうるような「みんな」である。
 このなかで言えば、ポピュラーなものにおける「みんな」は、第二の意味での「みんな」に最も近い。何がポピュラーであるかは、社会集団によって変わってくるからだ。
 とはいえ、第二の意味での「みんな」とまったく同じと考えることはできない。公共性の場合には、「みんな」の範囲やメンバーシップが明確でなくてはならない。でなければ、何が共通(の規範や関心事など)であるかが決まらないからだ。だが、ポピュラー性の場合は、必ずしも「みんな」の範囲やメンバーシップが明確であることを要さない。宝塚歌劇ファンの「みんな」は、どこからどこまでか。どのくらい好きであればファンと言えるのか。ファンクラブの会員は明確でも、ファンそのものの範囲やメンバーシップは明確ではないし、明確である必要もない。せいぜいのところ、メンバーシップとして挙げられそうなのは、宝塚歌劇が(程度はともかくとして)好きなことという同語反復だろう。

*1:斉藤純一,2000,『公共性』,岩波書店

公的なものとポピュラーなもののコンフリクト (2)

 問いかたを少し変奏しよう。「みんな」のものということであれば、公的なものもそうだろう。公園や公道などの公共財は、まさに「みんな」のものである。子どもたちは、「みんな」の迷惑になることはしてはいけない、と公共の場でのふるまいかたを教えられる。
 だが言うまでもなく、ポピュラー性と公共性は異なる。さらにはコンフリクトを生じる場合もある。公的であるべき政治を、政治家の獲たポピュラリティによって動かすことはポピュリズムと批判される(小泉政権のように)。ポピュラーなものは、公的なものに対して、「みんな」という共通点をもちつつも、何か相反する点を含む。
 それは、先の辞書的定義のなかでは(不要にも丸括弧に囲われているが)「親しまれ」であるだろう。ポピュラーなものは、身近さや親しみの感覚に結びついている。「みんな」に親しまれるもの、好まれるもの、それがポピュラーなものだ。
 対して、公的なものにおいては、そのような情緒や好き嫌いは重要ではなく、むしろ積極的に排除される。それよりも、何が「みんな」にとって正しいことか、善いことかが、判断や行動の規準となる。
 ポピュラーなものが欲求の原理に基づくのに対し、公的なものは規範の原理に基づくと言い換えてもよいかもしれない。ポピュラーなものは、その点では、むしろ私的なものに近接する。ポピュラーなものは、このように公‐私の軸を横断するがゆえに、コンフリクトを引き起こす。
 ポピュラーなものとは、どのようなもののことか。ここまででの答えは、とりあえず次のようになる。「みんな」が欲求によって関与するものである。それに対して、公的なものは「みんな」が規範によって関与するものである、と。
 しかし、まだすっきりしない。そもそも、ポピュラーなものにおける「みんな」と、公的なものにおける「みんな」は、同じ「みんな」なのだろうか。

公的なものとポピュラーなもののコンフリクト (1)

 「ポピュラー」なものとは、いったいどのようなもののことか。ポピュラーカルチャー研究においては、もっぱら具体的な対象(音楽、マンガ、等々の諸作品や諸作家)について論じられるためか、この問いはさほど突きつめて問われてこなかったように思える。確かに、定義に悩むほどの概念ではあるまい。手元の辞書には「広く一般に知られ(親しまれ)ている」もののこととあり(『新明解国語辞典 第五版』三省堂、多くの場合はこの程度の答えで十分だろう。ポピュラーなテレビ番組とは、広く一般に知られ(視聴され)、親しまれ(好まれ)ている番組のことであるというわけだ。
 だが、「広く一般に」とは、だれの(あいだでの)ことなのか。言うまでもなく、20代の男性と60代の女性では、「広く一般に」知られ、親しまれているテレビ番組は異なっていよう。つまり、だれを想定するかによって、何がポピュラーであるかは変わってくる。ただ、ここで問いたいのは、そういう意味での“だれ”ではない。
 子どもはしばしば次のような物言いをする。「みんな、ロンドンハーツ見てるんだよぅ、うちでも見せてよぉ」。この子にとって、ロンドンハーツは、「広く一般に」見られ、親しまれている、すなわち「ポピュラー」なテレビ番組である。たとえ、実際にはクラスの、仲よしの数人しか見てはいなかったとしても、(この子もそれは重々承知だったとしても)「みんな」(everyone)見ているというその感覚はウソでないことがありうる。この「みんな」とは、いったいだれのことなのか。
 横ポゼミの共同テーマ「文化とは誰のものか」に引きつけていえば、ポピュラーなものとは、このような「みんな」のものである、と、ひとまず言いうるだろう。しかし、その「みんな」とは、いったいだれのことなのか。

仮死状態の当ブログですが、私はまだ生きてます(挨拶)
今年は7月早々から暑くて死ぬかと思いましたが、何とか生きのびました。


阪大ではグローバルCOE「コンフリクトの人文学」というのをやってて、そのなかの研究会のひとつに「横断するポピュラー・カルチャー」てのがあって、なぜかそれに加わってて、昨日は、私の発表の番でした。
仮死状態からの蘇生をはかるため、そのディスカッション・ペーパーを何回かに分けて載っけることにします。
ここ数年、どうもテレビ的なもののことが(ネットやケータイとの対比において)なんだか気になってて、どうせならこの機に、気になってることを整理してみようという不純な動機でまとめたノートです。
なんか自分の好かない方面の文体になってます(泣)
でもそのまんま、若干の注を追加しただけで、載っけときます。

卒業式


先週は関大(非常勤で継続の4年次ゼミ)、今週は阪大の卒業式でした。



関大の卒業生からもらったキーケース。
自分では買わない種類のアイテムなので、これはありがたい。
早速使わせてもらってます。



阪大の卒業生からもらった赤ワイン。
これは問答無用でありがたい。
贈ってくれた一人が院生に上がってくるので、新歓はこれで迎え撃つことになりそうな。
ただし差し入れのポーズだけしておいて、専ら自分で飲んでしまってやる予定。


みなさん、ホントにどうもありがとう。
卒業後の新たな旅路に幸多からんことを祈ります。
Bon voyage!

mixi利用規約改定の件

ずいぶんとご無沙汰でございます。相変わらず何とかかんとか生き延びてはおります。
なぞという紋切り型のご挨拶はともかく、ひさびさにブログを書く気になったのは、すでに各所で話題になっているmixi利用規約改定の一件がやはり衝撃的だったわけで。

スラドJPの記事
CNET Japanの記事


実際の改訂の条文はこちら

第18条 日記等の情報の使用許諾等

  1. 本サービスを利用してユーザーが日記等の情報を投稿する場合には、ユーザーは弊社に対して、当該日記等の情報を日本の国内外において無償かつ非独占的に使用する権利(複製、上映、公衆送信、展示、頒布、翻訳、改変等を行うこと)を許諾するものとします。
  2. ユーザーは、弊社に対して著作者人格権を行使しないものとします。


「おいおいっ」というのが衆目の一致したところだろう。
はてなでも遙か昔に似たようなことやろうとして猛反発をくらってたことがあったなあ(遠い目)、mixiはそれ知らんのか、とか。
著作者人格権を行使しないものと」するのは法的にアリなのか、とか。
mixiが「当該日記等の情報を……無償かつ非独占的に使用する権利(複製、上映、公衆送信、展示、頒布、翻訳、改変等を行うこと)」をもつのをユーザに認めさせるてのは、同じ規約の第6条に「ユーザーの通信の秘密を守ります」てあるのと抵触せんのか、とか。
私は法律問題にはシロウトなので素朴な疑問しかもちえないが、このあたりのことはおいおいそのスジの方が論じてくれるだろうから、とりあえず措いておく。


注目したいのは、この改訂から、ユーザのある種「私的」なコミュニケーション(コンテンツ)をオープンにすることで、商売のタネにしようという動きが垣間見えることだ。
端的に言えば、ケータイ小説のように、書籍化してウケそうなものを出版することが念頭に置かれているように思える。
著作者人格権を行使しない」という一文は、おそらくは、シロウトくさい表現やムダな部分をプロが加筆修正削除して商業コンテンツ化するための伏線だろう。


昨今、メディア文化産業は、こうした「私的」要素を潤沢に含むコンテンツ探しにきわめて熱心であるように思う。
それは、「私的」なものが公開(オープン)化――というよりはマス(メディア)化――されることで、なにかしら人びとを強力に惹きつける磁場、一種独特の「リアリティ」が生じるからであり、その磁力の旨味を産業側も知っているからだ。
その「私的」なもの自体は、仮に『恋空』のように、およそ(旧来的な)現実味に乏しいものであったとしてもかまわない。
officialという意味での「公共性」の対極にある「私的」なもの、親密性(intimacy)が凝縮されていれば。
ただ、その「私的」なもの(親密性)がclosedな私的領域で生みだす日常的・旧来的な「リアリティ」と、それがopen化(「公」開)されたときに生じる「リアリティ」は似て非なるものだ。
ただで読めるケータイ小説を、ただで読んだ読者が、しかし書籍化されたそれを買っても読むのはなぜか。
それは、マス(メディア)化されることで生じる何かに、やはりどうにも惹かれてしまうところがあるからではないか。


マスメディアはおそらく、ネット・ケータイ以前のはるか昔から、こうした「私」(private, intimate)の「公」開(open)化によって駆動してきた。
ジャーナリズムと呼ばれるような、official, commonという意味での「公共性」は、そこに偶さか乗っかることが(かつては)できたにすぎない。
いや、何の根拠もない単なる直感だけども。


こういうopen privacy, open intimacyとでも言う語義矛盾に満ちたものの「リアリティ」は、ネットよりもケータイに親和的だ。
ネット的なるものはマスメディアとは異質な線の上に位置するが(たぶん)、ケータイ的なるものは実はマスメディアと同一の線上にある。
ネット上に生まれたケータイ的空間、mixiが、この規約改定から垣間見えるようなかたちでユーザの「私的」コンテンツに食指を動かすのは、それゆえある意味では自然とも言える動きであり、かつてのはてなの場合(それは他社が出した単行本をただで自社の文庫本にしようとしたようなもの)とは少なからず性格の異なるものであるようにも思う。
ま、儲け口を押さえとこうという意味では変わらんだろうが(それならそれで該当ユーザに対価を払うような仕組みを考えるなら、個人的には必ずしも悪いとも思わんし)。


というか、これはmixiのしかけた壮大な釣りではと思わんでもなかったりする。
「規約のとこに平成20年4月1日制定ってあるでしょーが、エイプリルフールだよん」とか、洒落をかましてくれたりして。

ネットの「ブラックホール」

堅牢な見かけによらず、インターネットは毎日その10%あまりが、ロウソクの火のように明滅しているのだという。ある研究チームが6月6日(米国時間)、ネットワークの暗闇を調査する実験ツールを発表した。
http://wiredvision.jp/news/200706/2007061223.html

むしろこういう穴があったほうがなぜだかホッとしたりするアナログ世代の私ですがそれが何か