mixi利用規約改定の件

ずいぶんとご無沙汰でございます。相変わらず何とかかんとか生き延びてはおります。
なぞという紋切り型のご挨拶はともかく、ひさびさにブログを書く気になったのは、すでに各所で話題になっているmixi利用規約改定の一件がやはり衝撃的だったわけで。

スラドJPの記事
CNET Japanの記事


実際の改訂の条文はこちら

第18条 日記等の情報の使用許諾等

  1. 本サービスを利用してユーザーが日記等の情報を投稿する場合には、ユーザーは弊社に対して、当該日記等の情報を日本の国内外において無償かつ非独占的に使用する権利(複製、上映、公衆送信、展示、頒布、翻訳、改変等を行うこと)を許諾するものとします。
  2. ユーザーは、弊社に対して著作者人格権を行使しないものとします。


「おいおいっ」というのが衆目の一致したところだろう。
はてなでも遙か昔に似たようなことやろうとして猛反発をくらってたことがあったなあ(遠い目)、mixiはそれ知らんのか、とか。
著作者人格権を行使しないものと」するのは法的にアリなのか、とか。
mixiが「当該日記等の情報を……無償かつ非独占的に使用する権利(複製、上映、公衆送信、展示、頒布、翻訳、改変等を行うこと)」をもつのをユーザに認めさせるてのは、同じ規約の第6条に「ユーザーの通信の秘密を守ります」てあるのと抵触せんのか、とか。
私は法律問題にはシロウトなので素朴な疑問しかもちえないが、このあたりのことはおいおいそのスジの方が論じてくれるだろうから、とりあえず措いておく。


注目したいのは、この改訂から、ユーザのある種「私的」なコミュニケーション(コンテンツ)をオープンにすることで、商売のタネにしようという動きが垣間見えることだ。
端的に言えば、ケータイ小説のように、書籍化してウケそうなものを出版することが念頭に置かれているように思える。
著作者人格権を行使しない」という一文は、おそらくは、シロウトくさい表現やムダな部分をプロが加筆修正削除して商業コンテンツ化するための伏線だろう。


昨今、メディア文化産業は、こうした「私的」要素を潤沢に含むコンテンツ探しにきわめて熱心であるように思う。
それは、「私的」なものが公開(オープン)化――というよりはマス(メディア)化――されることで、なにかしら人びとを強力に惹きつける磁場、一種独特の「リアリティ」が生じるからであり、その磁力の旨味を産業側も知っているからだ。
その「私的」なもの自体は、仮に『恋空』のように、およそ(旧来的な)現実味に乏しいものであったとしてもかまわない。
officialという意味での「公共性」の対極にある「私的」なもの、親密性(intimacy)が凝縮されていれば。
ただ、その「私的」なもの(親密性)がclosedな私的領域で生みだす日常的・旧来的な「リアリティ」と、それがopen化(「公」開)されたときに生じる「リアリティ」は似て非なるものだ。
ただで読めるケータイ小説を、ただで読んだ読者が、しかし書籍化されたそれを買っても読むのはなぜか。
それは、マス(メディア)化されることで生じる何かに、やはりどうにも惹かれてしまうところがあるからではないか。


マスメディアはおそらく、ネット・ケータイ以前のはるか昔から、こうした「私」(private, intimate)の「公」開(open)化によって駆動してきた。
ジャーナリズムと呼ばれるような、official, commonという意味での「公共性」は、そこに偶さか乗っかることが(かつては)できたにすぎない。
いや、何の根拠もない単なる直感だけども。


こういうopen privacy, open intimacyとでも言う語義矛盾に満ちたものの「リアリティ」は、ネットよりもケータイに親和的だ。
ネット的なるものはマスメディアとは異質な線の上に位置するが(たぶん)、ケータイ的なるものは実はマスメディアと同一の線上にある。
ネット上に生まれたケータイ的空間、mixiが、この規約改定から垣間見えるようなかたちでユーザの「私的」コンテンツに食指を動かすのは、それゆえある意味では自然とも言える動きであり、かつてのはてなの場合(それは他社が出した単行本をただで自社の文庫本にしようとしたようなもの)とは少なからず性格の異なるものであるようにも思う。
ま、儲け口を押さえとこうという意味では変わらんだろうが(それならそれで該当ユーザに対価を払うような仕組みを考えるなら、個人的には必ずしも悪いとも思わんし)。


というか、これはmixiのしかけた壮大な釣りではと思わんでもなかったりする。
「規約のとこに平成20年4月1日制定ってあるでしょーが、エイプリルフールだよん」とか、洒落をかましてくれたりして。