可能世界

『文藝』1994年冬季号の「可能世界についての四つの可能な質問」より。
質問作成は三浦俊彦氏。
4つの質問というのは、おおざっぱに書くと

  1. 宇宙が始まり、生命が生まれ、意識が生まれる。この確率はほとんどゼロに近いといわれるが、現に生命、意識は存在する。この不思議を説明するための仮説として、次のどれに真実味を感じるか?魅力を感じるか?(で選択肢が並ぶがそれは省略)
  2. 現実にあなたは死ぬ。この悲しい感情に対する慰めとして効果がより大きいのは、次のどちらか?(選択肢は略)
  3. 必然的存在、つまりどの可能世界にも必ず登場する存在者はあるか?
  4. ボールペンを持ち、「ああ、私がこのボールペンだったらなあ」とつぶやき、「そしてこのボールペンが私だったらなあ」と付け加えてください。さて、あなたがこのボールペンであり、このボールペンがあなたであるような世界(  )?この(  )に適語を入れ、問いを完成させ、その答えもお願いします。

これに対して、永井均やら山内志朗やら飯田隆やら清水哲郎やら、そうそうたるメンツが答えているのだが、すげーと思ったのは、「本来、愚かな質問に答える必要はない」で始まる土屋俊さんの回答。

しかし、「可能世界」の概念は、分析哲学が一九七〇年以降比較的まじめに啓蒙につとめてきた概念であるにもかかわらず、三浦氏のように、実際にはほとんどなにも理解していなくてもなお自分ではその概念を使っているという錯覚を持てる人がいるという現状を考えて、あえて「解答」をしてみよう。しかし、この解答の意図は、まったく質問に答えることではない。むしろ、その質問の意図と背後にある誤解を吟味することである。


お怒りはごもっともかもしれませんが、出だしからここまではっきり言うのは、すげー。
対比するに、飯田隆さんは「優しい」人であることがよくわかる。
たぶん、同じことを思われたにちがいないが、分析哲学的に興味ある返答の可能な第三の質問にだけ答えて、他の質問は「興味深いものですが、私の考えではどちらも可能世界の概念とはあまり関係がないと思えますし、私自身ひとにわざわざお聞かせするような意見は持ち合わせておりませんので」と、やんわり謝絶だもんね。
その第三の質問に対しても、土屋さんは「必然的存在の例は、0、1、π、無限などの数、真理値などの論理的対象などである。こんなことがなんで質問になるのかわからない」と手厳しい(私のようなシロウトが考えても、そうだとは思うんですが)。
第一の質問にいたっては

この質問には、生命と意識が存在することは「不思議なことである」ということが前提にされているようである。しかし、……現に、「意識と生命の存在の確率」が0ではないといっているのだから、確率0でないことが起こることが不思議なはずはない。なぜ今のわれわれが生命と意識をもっているのかという問題を考察しようとするならば、それは「この」世界について研究すればいいことで、「可能世界」とは無縁である。可能世界(の集合またはクラス)とは実現してない別の世界のことではなく、この世界の表現に意味を与えるための数学的構成物にすぎない。この点こそ、分析哲学者が長年にわたって教えようとしてきたことであるが、文学者には聞く耳も理解する頭もないようである。


第二、第四の質問への答えはとばすとして、「全体について」のコメントは次のとおり。

このような誤解の集積が実は三浦氏独自のものでなく、ある程度普遍的な現象であることは知っている。とくに、可能世界意味論をやるという言語学者に顕著な現象であることも付記しておこう。
たしかに、分析哲学の概念としての可能世界は、そのテクニカルな側面を強調されすぎて、三浦氏のような連想ゲームの世界への飛躍に欠け、面白くなくなってしまう傾向にあることは認めよう。しかし、実際には、そこではじめて役に立つ概念になるのであり、想像力をいくらたくましくしても、可能性の概念を理解することはできないのである。実際、想像可能な世界はそもそも可能な世界の部分集合であろう。したがって、文学者に出番はない。


んでもって、この回答全体のタイトルが「文学者に出番はない」。
すげー。
ここまでビシッと言えるのが、「専門家」ってもんでしょうね。
シロウトはシロウトなりにちゃんと勉強する姿勢だけはもたねばと自戒。