ネット空間の誤配可能性


その朝日の出してる『ASAHIパソコン』7/15号が“電車男”を記事にしていた(「2ちゃんねる発「純愛物語」にハマりまくる人々」)。

知識人層と思われる読者を中心に「ネットに新世代出現」という世代論も飛び出した。一世一代の恋愛相談を、顔も名前も知らない相手に持ちかけた事実に、「我々には理解できない新世代だ」という解釈になったようだ。
だが、恋愛相談などは匿名だからしやすい面があり、2ちゃんねるは短時間で多くの助言が集まる。それなりの合理性はあるわけだ。


80年代の「新人類」にも、「我々には理解できない」という枕詞が冠せられていましたが、それはともかく。
「恋愛相談」に限らず、強烈な不安とか悩みとか、自分でuncontrolableな情動をかかえて何とかしようとするときに、「匿名だからしやすい」というのは、個人的にもよくわかる。
そこでなされるのは、いわゆる精神分析的な対話だ。
精神分析医は、「顔」とか「名前」(固有名)をもってはならない。
クライアントの言うことをひたすら聞くことに――発話の反射鏡となることに――徹しなくてはならない。
自らが「光源」となることを差し控え、相手の発する光線をひたすらに反射する鏡。
精神分析医にできる(求められる)のは、クライアントがその鏡に映った光線の束をみて、その光線の束を何かしらのひとつの像にまとまりをつけられるように、鏡の角度を調整してやることだ。


クライアントにとって重要なのは、レスポンス(応答)をかえしてくれることであって、ある意味でレスポンスの内容はどうでもいいのである。
というより、レスポンスが実際にかえってくるかどうかすら重要でない。
レスポンスの“可能性”が与えられて・保たれてさえいればよいのだ。
その可能性を支点として、クライアントは自らの像を自らまとめあげていく。
そのような鏡=支点の位置にある「精神分析医」というのは、きわめて抽象度の高い超越(論)的な他者だ。
その位置をあるいは「第三者の審級」と読んでいいのかもしれない。


ネットがひとつ興味深いのは、こうした抽象的・超越(論)的な他者――そもそも経験の領野に現れえない他者――を、いくばくか実際の経験のうちに感じさせてくれるようなところがあることだ。
これは対面状況のもつリアリティともマスメディア的なリアリティとも異なる、ある種独特のリアリティのありようだろう。
たとえば、アクセスカウンターという装置。
これは、内容をもたないレスポンスそのもの――カウンターの数字が1つ上がることにいかなる意味内容があろう――であり、レスポンスの可能性を可視化する装置だ。
ある意味で、スレに次々とレスがついていくことも、カウンターの数字が次々と上がっていくことと、本質的に変わりはないものであるのかもしれない。


「顔」も「名前」も知っている相手に出されるメールもまた、ある面では、その相手(経験的・具体的な他者)に対してではなくて、抽象的・超越(論)的な他者へとさしむけられたものであるのではないか。
そう、メール(郵便)とは、前者から後者への誤配可能性をつねに孕むものなのだ。
そういえば、『世界』2月号で北田さん・香山リカさんと鼎談したときに、香山さんが「超越的・包括的に一挙に自分を受容してくれるもの(それは浜崎あゆみでもいいし前世の私や同志であってもよい)への志向が若い人たちのあいだで高まっているのではないか」と、強調していたことを思い出す(掲載された鼎談記事のなかでは発言の一部しか収録されていませんけど)


「つながりの社会性」において志向されるものは、たぶん経験的・具体的な他者とのつながりではない。
むしろ抽象的・超越(論)的な他者とのつながりであるだろう。
しかし、それを経験の領野において具体的な他者とのつながりとして確保することは、不可能だ(論理的に)。
ケータイ的なつながりにおいて試みられているのは、そうした論理的には不可能であるつながりを、経験的・具体的な他者たちとのつながりにおいて近似しようとすることであるのかもしれない。


大澤真幸氏の論によれば、「第三者の審級」とは、経験的な領域(「生」の領域)と非経験的な領域(「死」の領域)の区別を設定し、前者を囲いこむ「書かれざる囲い」を設定するものといえる(『行為の代数学青土社
『世界』鼎談の最後で、私が次のように述べたのは、そのあたりのことが気になっているからだ。

ケータイと直接かかわりかどうかは別として、一部分か全体かわかりませんが、生死の概念なり[自己の]存在感なりというのが持てなくなってきていることが非常に問題ではないかと思うんです。それがケータイ的なつながりによって補償できるかというと、おそらくそういう問題ではなく、逆に再生産することにつながっていくだろう。


これに続けて、香山さんが言っているように、「斎藤孝さんが「身体感覚を取り戻せ」と言ってみたり、最近、古武道がはやったりというのは、人間の身体というものに立ち返ればリアリティなり存在感なりを再獲得できるんじゃないかという最後のあがきがあると思いますが、それもたぶん違う」と、私も思う。
むしろ、必要なのはまず、「つながりの社会性」への希求をもたらす社会のありようを、きちっと把握・分析することだろう。