マクドナルドのイスの固さと「掟の門」

昨日につづいて『カーニヴァル化する社会』からメモ。

 東と大澤の議論*1の中で中心的に語られていることのひとつが、「環境管理型権力」を巡る問題だ。環境管理型権力とは……たとえば、マクドナルドの椅子の固さ、といったような事象に端的に現れている。……客に対して、「ハンバーガーを食べたらさっさと出ていけ」と命令するわけにはいかない。しかしたとえば、椅子の固さを固くすることで、客がそこに長時間座っていることができないようにして、結果的に回転率を上げることは可能である。このように、物理的な環境設定の調整によって、人の行動を変化させる作用をもたらすのが、東の呼ぶ「環境管理型権力」であるわけだ。
 大澤は、東の議論に対して、フランツ・カフカの『審判』に収められている寓話「掟の門」についての話題を持ち出す。そこで示されているのは、開いているにもかかわらず、なぜかくぐることのできない「掟の門」に対して、これは「環境管理型権力」と呼ぶべきものなのか、それともフーコーの言う「規律訓練」型の権力なのか、ということだ。あくまで物理的な配置の問題によって人がコントロール可能であるというところが、環境管理型権力の議論の焦点だと主張する東に対し大澤は、掟の門をくぐらせないでいる権力作用は、規律訓練型権力と、環境管理型権力の中間にあたるものなのではないかと述べる。
 私の考えでは、おそらくこれは東の言う意味での「環境管理型権力」と呼ぶには不適当な例である。しかしながら大澤の提示した議論は、単なる物理的配置による、人々の振る舞いのコントロールという位相を超えた、現代的な問題の理解の一助となるような事態を指し示しているのではないか。
 「掟の門」の重要なところは、門が開いているにもかかわらず、すなわち門をくぐることのできない理由は何もないにもかかわらず、結局、門をくぐることができないという点にある。つまり、門の前に立った男は、自分が門をくぐることのできない理由を、何もないところから勝手に創り出しているのである。東と大澤の議論の中では、こうした、何の理由もなく「動物的」に行われるコントロールに対し、コントロールされる側が、「人間的」な理由を見いだすという点で、スターリニズムに近いという話になるのだが、ここまで議論してきたような、データベースと個人の欲望という観点からは、むしろこれこそが監視社会化によって生じる事態の本質なのではないかという考えを採ることができる。

(p.92-4)


私はこの「掟の門」は、やはり環境管理型権力の端的な一例であると思う。
というのは、マクドナルドの椅子の例のほうもまた、この「掟の門」と同じだろうと思うから。
マクドナルドの椅子は単に物質的に固いだけでは、環境管理型権力として作動しない。
それを客の側が、前意識的に〈固い〉〈居心地が悪い〉と認知しなくては、席を立つ気もおきないだろうからだ(固さなり痛さの感覚がマヒしているケースを考えてみればよい)。
つまり、認知活動=情報処理をおこなう存在が対象でなくては、環境管理型権力は作動しないのであり、それは物質的・物理的なコントロールではなく、情報(技術)的なコントロールなのだ。
この情報処理=認知過程のアウトプットが前意識を超えて、意識にのぼることになると、「掟の門」の寓話のようになる。
ここで生じるのは、「掟の門」をくぐれないこと=マクドナルドで席を立つことを、「人間的」な理由に誤帰属させることだ。
いわく、「そろそろ席を立たなきゃという気分になったから」「次の用事もあるし」といった誤帰属だ。

さて、これは人間が単なる物理的な音やインクのシミを感覚し、それを〈記号〉として認知し、そこに〈意味〉という「人間的」な理由を見いだすことと、同型の事態である。
規律訓練型権力が意味(シニフィエ)の位相に介入してくる権力であるのに対し、環境管理型権力は意味なき記号(シニフィアン)に介入する権力、というわけだ。
それが単なる管理(動物を管理するようなそれ)ではなく、権力として問題化されるときの問題は、あくまでシニフィアンシニフィエへと配送されていくことのうちにある。
そこにはつねに誤配の可能性がある。
その誤配可能性のうちに権力性が宿る。
誤配可能性をなくすには、配送(記号作用)をやめる=端的に「動物」と化すしかない。
その途を避けるのであれば、誤配可能性を甘受するしかない。
私はそれでいいと思うのだ。
むしろ、誤配可能性を致命的な誤配になるべくつなげないような仕組みを考える余地も、けっこう残されているんではないか、と。