『カーニヴァル化する社会』との往復運動

昨日はGLOCOM Forumのised研でしたが、今朝早々に帰ってきて、またしこしこお仕事してます(泣)
んで、昨日のレセプションの際に鈴木謙介さんに会ったので、ふと思い出し、『カーニヴァル』の話をメモしておこう、と思い立った次第。

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

ゼミの学生さんたち何人かにこの本の書評を書いてもらったんですが、それがちょっと興味深かった。
一部抜粋。

今を生きる若者の一人としてこの本には共感できる部分が多々あった。中でもデータベースとのやりとりで自足する若者という切り口のおもしろさには惹かれるものがあった。自己の欲望をデータベースと往復運動から産み出すと言われると異常さを覚えるが、自分に照らし合わせてみるとなるほどと頷けるところがある。

「年長者から見た場合は若者コミュニケーションについて理解し難い場面もあるだろうが、若年層から見れば理解・共感しやすく、読みやすい本なのではないだろうか。


このシンクロ率の高さに「へええ」と思ったのです。
鈴木さんのお話によると、内容より話として共感できるかどうかが、けっこう評価の分かれ目になっているそうで、特に学生さんに共感ベースが多いとか。
それってさ、この本の2章3節の「データベースとの往復運動」の構造の一部をなぞり直している・反復しているような読み方だよね。

…おすすめの書籍やシャッフルされて選択される曲は、あくまでデータベースと、そこからデータを引き出すアルゴリズムによって決定されているに過ぎず、それが、そのデータでなければならない理由は、実際にはどこにもない…。それにもかかわらず、私たちは、引き出された結果に対して、「Amazonはやっぱり私のことをわかっているな」といった形で、……、そこに「人間的」な理由を見いだそうとするのである。

(p.94)


そこに自分(「人間的」な理由)が見いだせるかどうか。
だけでなく、この本を読む場合には、データベースの提示したもの(たとえば職業適性診断テストの結果)に自分を見いだしている、という自分を見いだしている、のであるな。
再帰(reflex)のメタ再帰というか。
それもまた、この本に書かれていることであるが(p.129)。
『人間的、あまりに人間的』になぞらえていえば、この本は『再帰的、あまりに再帰的』な本なのであった。