授業評価アンケート


今日、春学期におこなわれた授業評価アンケートに対する「教員のコメント集」がメールボックスに入っていた。
私自身はうっかりコメントを返すのを忘れていたのだけれど(笑)
みなさん、かなり学生の授業評価を真摯に受けとめておられる。
まあ、そりゃそうだ、真摯でない人はそもそも私のようにコメントを返さないからな(笑)。
また、コメント内容を見ると概して評価が平均より高い方が多いように見受けられる。
評価の低い人が授業を改善するための材料のひとつとして、この「授業評価アンケート」なるものはあると思うのだが。
その点からすると、むしろやる気のある教員はますます授業を改善し、やる気のない教員は結局そのまんまで、二極分化が進むつうことか。


ちなみに私の場合、コメントを返さなかったからといって、評価がさほど低いわけではない。
というか、全21評価項目中、「担任者の声ははっきりと聞き取れましたか」という項目以外は、学部平均点、全学平均点を下回ったものはない。
へへ〜ん。
「声」も半分はマイク・音声設備の不備によるものだ。
もう半分はマイクの持ち方で声が入りにくくなるのをしばしば忘れることによるので確かに自分の責任なのだが(反省)。
「全体として受講して満足したか」「さらに深く学習したいと思ったか」「知識が深まった、能力が高まったと感じるか」の重要3項目については、5段階評価で4.0〜4.1、学部平均・全学平均を0.5ポイント上回っているから、決して悪くないと言っていいと思う。
だからといって、改善すべき点がないかというと、もちろんそんなことはあろうはずもなく、特に最近は時間的な面で授業の準備不足で反省しきりではあるのだが、それはさておき。


気になったのは、アンケート結果をふまえた授業の「改善」のしかたについてだ。
みなさん、割とすなおに、指摘を受けた点について“評価が上がる”方向での改善案をコメントされている(もちろん「それは無い物ねだりだ」と学生をきちんと諫めるコメントもあるが)。
たとえば、「配付資料をもっと充実させる」とか「板書をもっとていねいに書く」とか。
それはそれで正しい改善案ではある。
読めない悪筆で板書されても意味はあるまいし。
ただ、私としては、学生の要望に沿う方向で「改善」していくことが、はたしてどこまで「改善」たりうるのか、と悩むところがある。


授業のアウトラインを予め示し、内容を詳しく記述したプリントを配り(あるいは教科書をきちんと使い)、豊富な資料を配付し、板書もそれを写していけばノートが完成する。
こうした授業は、ノートもとりやすいし、手元に豊富な情報・資料も残るし、確かに学生にとって「ありがたい」だろう。
それはいわば、料理の材料が一式パッケージされ、レシピもついて宅配されるのに似た「便利さ」「ありがたさ」だ。
あとはレシピにそって料理すればできあがり、と。


しかし、それははたして“教育的に”いいことなのか。
ノートをとる、というのは、実はかなり高度なスキルだ。
英語(でなくてもいいが母語以外の言語)でレクチャーを聴いて、ノートをとったことのある人なら、わかるだろう。
耳は話の先を追いながら、手はすでに聞いた話を書きとめなくてはならない。
この並列処理を頭がおこなえなくては、ノートはとれない。
しかも、話を聞いてポイントを理解・抽出し、それをノートに書き留めるようにしないと、一語一句書いていてはとてもノートなど追いつかない。
「これがポイントです」と一々示してくれる授業は、「話を聞いてポイントを理解・抽出」するプロセスを省いてくれるから、確かに受講生にはラクだ。
「ありがたい」授業であることだろう。
しかし、“教育的に”評価するなら、そうした「理解」のプロセスを省略できる授業というのは、いい授業であるのか。


そのあたりのことをここ数年、悩むようになった。
大学(教育)というのも、確かに一面ではサービス業である。
しかし、営利的なサービス業は顧客満足をいかに高められるかが至上命題であるのに対して、大学(教育)はその評価軸だけではやっていけないし、やるべきでもない。
むろん、これまでは顧客満足をまるっきり無視した授業もまかりとおってきた(し、今でもまかりとおっている)から、その面では学生の授業評価アンケートなどの動きは肯定すべきだろう。
しかし、学生の満足度の高い授業=よい教育、ではないはずだ。
大学間競争が激化するなかで、大学経営における「顧客満足」の比重はいよいよ高まるだろう。
そのなかで、大学経営者に、そして教員に、授業評価アンケートや「顧客満足」についての変な勘違いが広がらないことを望む。


教育に関する評価の軸は、できるだけ多いほうがいい。
「ノートがとりにくい」授業は、一方では悪い授業であり、同時に他方ではよい授業である。
そのどちらかの評価軸を優位におくようなこと、評価軸を一元化することは止めること。
複数の評価軸を手元にたずさえ、見比べ、その案配に悩みながら授業をすること。
授業の「改善」というのは、おそらくそのなかからしか生まれてこないはずだ。


ううう、来週の授業、どうしよう...