広田照幸「教育改革の前に」

朝日新聞2007年1月25日付夕刊(大阪版)より。

確かに、メディア報道を契機に事態が改善した部分はあった。……だが、そうした、学校や教師を非難する情報の氾濫が、二つの困った事態を生んでいる。
(中略)
もう一つは、教育行政が世論に応えて「何か改善策を」とやるたびに、学校現場は余裕がなくなっていく、という悪循環にはまっていることである。特に、授業の工夫や子どもと向き合うための時間的余裕がなくなってきている。一九八〇年代以降、学校は、ろくに教員も増員されないまま、次々と「改善」「改革」の名のもとで、新しい試みの指示が上から降ってくるようになった。その結果、教師の職務は、水ぶくれのように多方面で不定型なものへと広がってきてしまった。会議や研修や書類作りの仕事が増えた。教育活動そのものではなく、評価資料作成や評価のための時間も増えた。学校選択制のもとでは、パンフレットを作って「営業」に出かける必要も生まれてきた。見ばえのよい新規の事業でないと予算がつかないしくみが、そうした職務の水ぶくれに拍車をかけている。

大学とて状況に大差はない。
適当に文言を入れ替えてみよう。

特に、授業の工夫や研究のための時間的余裕がなくなってきている。一九九〇年代末以降、大学は、ろくに教員も増員されないまま、次々と「教育改善」「入試改革」の名のもとで、新しい試みの指示が上から降ってくるようになった。その結果、教員の職務は、水ぶくれのように多方面で不定型なものへと広がってきてしまった。会議や研修や書類作りの仕事が増えた。教育・研究活動そのものではなく、評価資料作成や評価のための時間も増えた。大学全入時代のもとでは、パンフレットを作って「営業」に出かける必要も生まれてきた。見ばえのよい新規の研究・教育計画でないと予算を獲得できないしくみも、そうした職務の水ぶくれに拍車をかけている。

それでもなお「大学入試制度改革」が必要らしいですから。ふう。
(参考:http://d.hatena.ne.jp/dice-x/20061105#p1