母親毒殺未遂事件とリアリティ・ブログ

事件そのものについては別に言いたいことはない。
ブログで「毒殺日記」をつけていたのは現象面での新しさにすぎず、ある意味では「ありふれた」少年犯罪であるだろうと思うし。


私が気になるのは(メディア論的な言い方をすれば)事件の「受容空間」の変質とでも言うべきものだ。
マスメディアの報道も、ネット上での消費のされかたも、おおむね相変わらずだが、そのなかで引っかかった(というか軽く衝撃を受けた)のは、極東ブログの次のエントリだ。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2005/11/post_42ce.html


これ自体は鋭い文芸批評のように「おもしろい」――不謹慎な言い方かもしれないが――読みではないかと思う。
また、この読みの内容について、どうこう言いたいわけでもない。
内容はどうであれ、こういう「おもしろい」読みが提示されることによって下書きされることになる受容空間の構図が引っかかるのだ。


こうした「おもしろい」読みが提示されることによって、容疑者のブログは、遡及的に、ある種の文学「作品」と化す。
確かに容疑者のブログには、もともと「作品」たりうるだけの表現力・文章力を認めうるかもしれない。
しかし、「作品」はそれ自体で「作品」たりえない。
「作品」は「批評」と対になって、はじめて「作品」となる。
マンガにせよ広告にせよ、それが「作品」化したのは、それに対する批評空間が1980年代ごろに曲がりなりにも成り立ったからだ。


むろんこれまでも犯罪事件を「作品」と化すような「批評」がなかったわけではない。
というか、むしろよくあったことだろう。
ただ今回の場合には、容疑者の「作品」性への欲望に共振するかたちで「作品」化が生じているように思える。
○○文学新人賞にエントリした文章が、適切な批評をえて受賞を果たし、みごと「作品」化されたといった感じだろうか。


しかし、そこになぜ人の生死――虚構ならぬ現実――が賭け金として積まれるのか。
いや、むしろ問いの立て方を逆にすべきかもしれない。
なぜ私たち(容疑者を含む)は、淡々とした現実として、殺人未遂事件を受け入れることなく、「作品」(虚構)という賭け金を積み増そうとするのか。
無意味な現実に意味を与える物語が欲しいのか。
おそらくそうではない。
欲しいのはむしろ現実感(リアリティ)そのものなのではないか。


それは日本的なリアリティ・テレビのもつ「リアリティ」に似ているように思える。
猿岩石の過酷なヒッチハイク道中でも、ラブワゴンの恋愛模様でもいいのだが、そこで繰り広げられる「リアル」ワールドには、絶え間なくテロップとナレーションがかぶせられる。
そして、「リアル」ワールドを視聴するタレントたちのいるスタジオの風景が繰り返しインサートされる。
それらは、映し出されいる「リアル」ワールドを「テレビ」化する――リアリティのテレビ性を具象化する――仕掛けだ。
そこに映し出される「リアル」ワールドは、それがテレビ(番組)であることから遡及してその「リアリティ」を与えられている。
そこでのリアリティの源泉は、テレビの画面の向こう側にあるのではない。
テレビというメディアの接面上に(on TV)、あるいはテレビを視聴すること*1のうちにある。

「リアリティ・テレビ」の感覚は、アメリカと日本とでは…ちがっている。アメリカにおいては、「リアリティ」はおそらく、あくまで出演している人々の離散集合の側にある。メディアが人工的な設定を与えること、それが放映されることの出来事性は、そうした民主主義的タテマエのなかで、消去されているとはいわないまでも、かなり透明化されている。それに対して日本では、テレビ(画面)というメディアが、はるかに具体的に存在してしまっている、逆にいえば、メディアに向かって人間が透明化されるという前提をもっているように思える。

遠藤知巳「メディア的「現実」の多重生成、その現在形」、
石田・小川編『クイズ文化の社会学世界思想社、2003年、p.166)


今回の容疑者のブログに関説する極東ブログ(とその他あまたのブログ)は、その意図とは無関係に、ラブワゴンに関説するスタジオと相同の構図をとっている。
そのなかから、リアリティ・ブログとでもいうような「リアリティ」が生じてはいないだろうか。
ブログに向かって人間が透明化されるという事態。
こうした事態を、ネットはテレビ以上にたやすく(また意図せずして)ひきおこしうるだろうし、また、そこから生じる「リアリティ」もテレビ以上で強力なものでありうるように思える。
もちろん、テレビに比べれば、あるブログによって下書きされた「リアリティ・ブログ」の構図に接する人の数など、たかがしれているだろう。
ただ、何かしらネットの「リアリティ」、およびリアリティ・テレビ的な「リアリティ」の微妙な変節点を感じるところもあるのだ。
まあ、多分に気のせいかもしれないとは思うけども。

*1:それを形象化するのがスタジオのタレントたちだ