トゥルーマン・ショーとしての小泉劇場

本日、非常勤先の講義、夏休み明けの第1回目。
「放送特講」という科目なので、リアリティ・テレビの話で何回かつなぐかと姑息な算段をし、他人のネタながら*1、『トゥルーマン・ショー』を見せて、ぽつぽつ説明をはさみこむ。
関大では去年も一昨年もやったネタで、「代わり映えしねえなあ」という声もどこかから聞こえてきそうだが、まあ、ウケのいいネタではあるのだ。


で、映画のなかで視聴者がわくわくするシーンを見てて、何かに似てるなあ、と。
ああ、そうだ、「ジュンちゃん、がんばれ」「コイズミ、がんばれ」の視聴者=有権者に似てるんではないかなあ、と。


トゥルーマン・ショー』は、作りごとの「お決まり」(予定調和)への嫌悪とその破綻への欲望を描きだした映画である。
リアリティ・テレビは、すべからく、そのようなそこはかとない嫌悪と欲望に支えられている。
映画のなかの視聴者は、いつ番組が破綻するかを待ちこがれながらテレビを視つづける。
放送(transmission)が中断されたときに過去最高の視聴率を記録するのが、その端的な証拠だ。
番組のプロデューサー、クリストフもそのことをよく知っている。
だから、番組のなかに破綻のリスクを――おそらくは意図的に――挿入する。
トゥルーマンの聞いているラジオに、エキストラと裏方の打ち合わせの無線が混信したり、浜辺でトゥルーマンの周囲1mだけに雨が降ったり、などなど。
クリストフほどの優秀なプロデューサーが、そんな凡ミスを犯すはずがない。
「意図的に」というのが強すぎれば、おそらくクリストフのたぐいまれなプロデューサーとしての資質が、無意識にそうしたミスを犯させるのだ。


それはともかく。
クリストフは、『トゥルーマン・ショー』における圧倒的な「権力者」である。
トゥルーマンはそのもとで「弱者」である。
たかだか自分の生まれ故郷(シーヘブン)の外に出ることすら、意のままにならない。
シーヘブンを出るには、船に乗るとか、橋を渡るとかしなくてはならない。
幼いころ自分のわがままによって父親を水死させてしまったトラウマをもつトゥルーマンは、水に強迫的な恐怖をもつがゆえに、それができない。
開かれているにもかかわらず、なぜかその先へ踏み出すことのできない「掟の門」だ。


しかし、トゥルーマンは自らの「トラウマ」(「掟の門」)に立ち向かい、クリストフの「庇護」のもとから飛び出すべく、ヨットで大海の荒波へ漕ぎ出す。
何ごとも意のままにならない弱者が、自らの命を賭けて、強者へと立ち向かう、というこのシーンが映画後半の見せ場。
自民党という「トラウマ」をかかえつつも、「オレは殺されてもいいんだ」とか言って、「抵抗勢力」に立ち向かうコイズミジュンちゃんと、構図的にはいっしょ。


さて、内田樹さんは、

小泉首相の美意識は「弱者は醜い」ということにある。
これを私はつよく感じた。

と言うが(http://blog.tatsuru.com/archives/001225.php)、微妙に、しかし決定的にどこか違うんじゃないかという気がする。


コイズミという“人物”の美意識は確かにそうかもしれない。
ただ、コイズミという“首相”は、弱さを強さに反転する――ルサンチマンともまた少し違う――やりかたを知悉している(意識的かどうかは別として)。
ヨットで荒海に漕ぎ出た弱者=トゥルーマンを応援する視聴者のように、解散総選挙にうって出た弱者=コイズミを、有権者たちは応援した。
それゆえの視聴率=投票率67%。
たいしたもんだ、と思う。


トゥルーマン=コイズミは、「弱者」として「弱者」にこう呼びかけた。

本来小泉政権のマクロ経済運営によりしわ寄せをこうむっているはずの「B層」に小泉総理を支持する者が多いのもこれがためでしょう。自らの存在意義を見出すチャンスに相対的に恵まれず悩んでいる身に対して、こう呼びかけられるのですから。「これは現実なんだ! キミたちの支持が必要だ」と。


かくして、荒海で死に瀕していたトゥルーマン=コイズミは、視聴者=有権者の支持を得て、「お決まり」の結末を破綻させ、「現実」へと踏み出すことに成功する。
映画『トゥルーマン・ショー』では、ここで視聴者は直ちにチャンネルを変えはじめ、「お祭り」は終わる。
今回の「政局」もそうだろうとかいうつまらないアナロジーはさておき、「作りごと」「お決まり」の破綻と、「現実」への参加(commitment)とが結びつくのは、あくまで「お祭り」の一瞬にすぎない。
そこに「祭りのあと」への期待は、どれほどあるのだろう。


政治や政局というのは、これまでも多かれ少なかれ「劇場(ドラマ)」だったし「お祭り」だっただろう。
しかし、そのドラマ性は、今回、かなりの転回点をむかえたのではないか。
暴れん坊将軍(コイズミ)vs悪代官(抵抗勢力)という単純なドラマだてのように見えて、おそらくそうではない*2
そういう善悪二項対立の構図であれば、別の軸を出してくれば、善−悪をひっくりかえすこともできる。
しかし、『トゥルーマン・ショー』級の複雑な構図のなかで、トゥルーマンを批判するのは容易なことではない。
たとえば宮台さんのいうように、民主党が「フリーターがフリーターのままで幸せになれる社会」を強くアピールしていたとして*3、そのアピールは、こうしたドラマの構図のもとで、どれほど機能しえていただろうか。
とはいえ、これからの選挙戦がドラマの「テンプレート」の提示合戦になっていったとしたら、それはそれで頭が痛くなる状況だが。


今回の選挙は棄権すべきだったかと思い悩む今日この頃。
投票率アップというかたちで、こういうドラマの構図に一票を投じたくはなかった。

*1:北田暁大『広告都市・東京』廣済堂、2002年

*2:いや、そういう単純なドラマだてに乗っかった人も相当数いるとは思うけれども

*3:民主党が示すべき政策は都市型弱者支援だ」『論座』10月号、p.61