ところで素朴な疑問

他者の声 実在の声

他者の声 実在の声

有理数は数えられる無限、可算無限個しかない。代数的な無理数を集めても、やはり可算無限でしかない。それにπやeなど現在知られている超越数を加えても、もちろん可算個しかない。つまり、われわれはたかだか可算個の実数しか知らないのである。非可算、すなわち連続体の濃度を実現するためには、少数を展開していく手続きが存在しないようなランダムな列をもった無限小数を考えねばならない。だが、「考えねばならない」というのはたやすいが、そのような展開手続きをもたない無限小数を考えることなど、われわれにはできはしない。われわれにできることはただ、確定した手続きを際限なく反復していくことでしかない。それゆえ、そのような手続きをもたない無限小数の存在を信じることは、イデア的存在としての無限に関わること、すなわちプラトニズムの立場をとるということにほかならない。

(p.88-9)


0〜9の目をもったサイコロを振って、出た目の数を書きとめていくという「手続き」は、どうなんだろう。
それは「ランダムな列」を生成することのできる手続きであり、かつ際限なく反復していくことのできる手続きであり、かつ、それはわれわれに考えることのできる手続きであると思えるのだが。
小数を展開していく手続きを考えうることが、小数を展開していく手続きの存在する無限小数を「考えうる」あるいは「知っている」ということであるとすれば、このようなサイコロを振ることによってランダムな列を生成していく手続きを考えうることは、少数を展開していく手続きが存在しないようなランダムな列をもった無限小数を「考えうる」あるいは「知っている」ことだと言ってもよいのではないか。
問題は、むしろその手続きによって展開あるいは生成されていく(いった)数列を、最初に戻って、再現(反復)していくことができるかどうか、ではないんだろうか。
代数的な無理数超越数の場合は、当該の手続きによって、最初から同じ数列を再現していくことができる(という信憑が少なくともある)。
サイコロを振るという手続きの場合は、そのようには考えられない(期待・信憑できない)。
つまり、実無限/可能無限の立場をとることは、プラトニズムの立場をとるか/否かという前に、偶然(性)/必然(性)という概念に絡んでいるんでないか、という疑問なのだが。
いや、(数学的)必然(性)という概念・問題圏がそもそもプラトニズムに絡むものであることはシロウトなりにうかがい知れるところではあるのだが、そこんとこ、ぽんと「プラトニズムの立場をとるということにほかならない」と飛ぶ前に、も少し丁寧に整理していただけるとありがたいのだ、シロウトとしては。
自分でちゃんと勉強しろよ、って話ではあるのだけど。


しかし*1、仕事の合間の気分転換読書用にとこの本を買ったのは、ミスだった。野矢さんの本、おもしろいのよ、気分転換の合間の仕事になっちまう。

*1: こういう「しかし」の用法の分析は16章に。