「情報戦」でも「反社会学」でもないゲームのひとつの道筋

ウィトゲンシュタイン全集 9 確実性の問題/断片

ウィトゲンシュタイン全集 9 確実性の問題/断片

「確実性の問題」より。断章の順序を少し入れ替えつつ。

三四五 いまそこにある色が何であるかを知ろうとして、「君には今どんな色が見えるか」と私が訊ねるとき、相手が日本語を解するだろうか、私を騙すつもりではないか、私は色名についての記憶を失っているのではないか、と疑うわけにはいかないのである。

三四六 私がチェスで敵を詰めようとしているときに、駒がひとりでに配置を変えるのではないか、しかもそれに気づかぬように私の記憶まで欺いているのではないか、などと疑うことはありえない。

三四二 つまり科学的探究の一部として、事実上疑いの対象とされないものがすなわち確実なものである、ということがあるのだ。

三四三 ただしこれは、われわれはすべてを探究することはできない、したがって単なる想定で満足せざるをえないという意味ではない。われわれがドアを開けようと欲する以上、蝶番は固定されていなければならないのだ。


他者の声 実在の声

他者の声 実在の声

一般的に言って、探求はその探求を可能にするような枠組をもっている。そして、その探究を続けるということはその枠組を黙って呑み込むということだから、探求の活動の中にあってなおその枠組を疑うことはできない。でも、だからといって探求の枠組をなしているものが疑いえない絶対確実なものだというわけでもない。われわれはその実践の外に出て、こんどはいままでの枠組を疑う新たな実践へと踏み出すこともできるわけだ。もちろん、そのときには別のことがらが枠組になっているのだけれどね。
そして、こういう構図で学問のあり方を見ると、どういう業績を上げた人が評価されるかが見えてくると思わないか? そう、必ずしも「真理」に到達した人じゃないんだ。より豊かな実践を拓いていく新たな蝶番を作りだした人。何かある問題に答えた人よりも、むしろ問題を作り出した人。さらに言えば、さまざまな問いと疑いを生み出しうる場を作り出した人だ。それは、ある枠組のもとで順風満帆に仕事をしていく人であるよりは、おそらく、備え付けの枠組のもとでの活動がギクシャクしてしまう人の方なんじゃないだろうか。

(p.25-6)