正高信男氏の新刊

考えないヒト - ケータイ依存で退化した日本人 (中公新書 (1805))

考えないヒト - ケータイ依存で退化した日本人 (中公新書 (1805))


もはや内容について新たに言うべきことはない。
http://d.hatena.ne.jp/dice-x/20050328#p1 参照)


この本はアナロジーだけの本である。
霊長類(サル)のアナロジーで、現代人(特に若者)を見たら、どう見えるか、という。
そのアナロジーが実際に正鵠を射ているかという「論証」はない。
前著『ケータイを持ったサル』にはわずかなりとも「論証」があったが、本著ではいよいよ消えてしまった。
したがって、この本はまったく学術書ではない。
学術研究には「論証」の手続きが欠かせないが、それがないのだから。


霊長類学のアナロジー社会学的対象にアプローチすること自体が悪いわけではない。
そのアナロジーが新しいパースペクティブを拓いてくれることは大いにありうる話だし、たとえ社会学のドシロウトだろうが何だろうが、その点は尊重すべきだろうと思う*1


あやういのはこの本で述べられていることが、霊長類学(自然科学)の裏づけ=論証を伴った学術研究の成果だとして、読まれかねないことだ。
養老孟司の言っている「バカの壁」が、さも脳科学的な裏づけがあるものと勘違いされているように。
この本は著者自身が前書きで断っているように、「趣味で」書かれた本にすぎない。

もちろん、一連の推測がまったく私の見当はずれである可能性も大いにある。だが趣味でしている作業なら、的はずれであったとしてそれが益にならないとしても、またさして害になることもあるまいと、執筆した次第である。

(p.vii)


自然科学の研究者には、一般向けの本を書くことについて、この手の「高の括りかた」をする人が数多くいる(自分の専門分野の入門書や啓蒙書ではなく、それを背景とした「雑文」について)。
脳をよくするドリルの川島隆太*2とかね。
彼ら彼女らは、専門の学術誌に投稿する論文であれば、決して露ほどもしないであろうような杜撰な議論を平気で書く。
それは「趣味でしている作業なら、的はずれであったとしてそれが益にならないとしても、またさして害になることもあるまいと」高を括れるからだ。
なぜ、そういう高の括りかたができるか。
人文社会科学をリスペクトしていないからだ。
もっとありていに言ってしまえば、人文社会科学(者)などバカにしているからだ*3


そういうふうにバカにする気持ちも、一方でよくわかるところがある。
自然科学の研究対象に比べて、たとえば社会学の研究対象は複雑すぎる。
よって、少なくとも現時点では、「科学」的(自然「科学」というときの意味あいでの)にアプローチするには、限界が大きすぎる。
ゆえに、社会学など何を言ってもせいぜい「評論」にしかならない。
それならオレだってアタシだって、自分の専門分野を背景にして、少し気の利いた「評論」ができる。
専門分野を背景にもたない「評論」だって、堂々とまかりとおっているし、いずれにせよ、だれしもが「趣味でしている作業」の域を出ない「評論」なんだから、「的はずれであったとしてそれが益にならないとしても、またさして害になることもあるまい」。
というわけだ。


このことは、ひとつには教養としての社会学教育(そこには大学の教養課程における社会学教育も含まれる)が、これまで失敗してきたことを示している*4
また、この手の本に対して「トンデモ本だ!」と指摘することの限界も示している。
著者にとっては、もともと「趣味でしている作業」なのだから、それに対して「事細かく論理の飛躍やら何やらを指摘されてモナー、何をムキになってんの」ってとこだ。
もちろん、こういう本を真に受けちゃいかんよ、あくまで話半分に聞いときなさいな」と読者へ啓蒙する意義は否定しない(けど、それこそがこういう本の書き手の執筆スタンスなわけで)。
それ以上にたぶん必要なのは、批判に終始するだけでなくて、批判的な「検証」「論証」を出していくことだと思う。
あたりまえの話だけど。
自然科学者だろうがドシロウトだろうが、問題提起はどんどんすればよい。
その問題提起を尊重しつつ、きっちり「検証」「論証」してみせることがクロウトのおしごとだろう*5
トンデモ本だ!」と批判のための批判を繰り広げるだけでは、結局、どちらの言っていることが権威 authority ありそうかという(鈴木謙介さん言うところの)「情報戦」にしかならない。
科学、というか学問の作法で、私が好きなのは、言っている人を尊重したり攻撃したりするんではなくて、発話者からはさしあたり切り離して、言っていることを支持したり批判したりするというところ。
別に学問の作法を言祝ぐ気はないが、学問というゲームのルールと「情報戦」というゲームのルールが違うことだけは、おさえておきたい。

*1: 逆にいえば、社会学のプロフェッショナルだろうが、さして新しみもおもしろみもないパースペクティブしか持ちあわせない人は(私も含め)ごまんといる

*2: というよりゲーム脳一派の川島隆太と言ったほうがいいかもしれないが、森昭雄といっしょにされると迷惑そうなんでw

*3: 実際、優秀な自然科学者から、かつてある場で「人文社会科学系にも優秀な人はいるんだなと初めて知りました」という発言を聞いたことがある(裏を返せば、人文社会系の学者に優秀な人はいないとそれまで思っていた、つうこと。ちなみにこの「優秀な人」の指示対象は私ではないw)

*4: 私が何だかんだ言いつつも『反社会学講座』を高く評価するのは、そこにひとつの理由がある

*5: しかし『ケーサル』の主張を批判的に検証した論文の掲載誌がまだ出ない。遅れるのは聞いていたが、7月には出るはずだったのになあ。どうなってんのか