先手より後手

関大で教えるようになって6年、その前の非常勤もあわせると大学教育歴は7年を超えることになるのだが、恥ずかしながら、ようやく最近気づいたことがある。
前回エントリにつづいて「恥」シリーズである。
([haji]カテゴリを作ったほうがいいかw)


ゼミとか導入教育とかの少人数クラスでは、教員が「先手」にまわっちゃダメだな、ということだ。
ノートテイキングでも論文要約でも何でもいいが、ありがちなのは(私もついそうやってきてしまっていたのだが)、ノートはこういうふうにとります、論文はこういうふうに要約します、という「見本」を先ず示して、さ、では実際にやってみましょう、と「まね」させるというやりかた。
日本語の「学ぶ」は確か「まねぶ」に語源があるので、これはけっこう伝統的なオーソドクスなやりかたなのだろうと思う。


しかし、去年はじめて1年生の導入ゼミ(うちでは「基礎研究」というクラスがある)をもちはじめてから、このやりかたはどうもな、アカンな、との思いを強くしたのだ。
1年生の導入授業の目的は、大学での学びかたを教えることではない。
といってしまうと語弊もあるが、その前に、彼ら彼女らの身にしみついてしまった高校までの学びかたを抜く――言いかたは悪いが毒抜き、アク抜きをする――必要がある。
これにたっぷり半年はかかる(というか実際にはもっとかかるし、学生によっては大学4年かかっても抜けない)。
現状では、悲しいかな、大学での学びをスタートさせるための導入教育ではなくて、スタートラインに立つところまでもっていくためのゼロに戻すリセット教育が、あわせて必要なのだ。


私自身は、学部生時代、院生時代を含めて、そういう導入and/orリセット教育をオフィシャルに受けたような記憶はもちろんない。
むしろ、友人や院生と話したり、自主ゼミや研究会に出たり(というほど勉強熱心な学生ではまったくなかったのだが;またも恥)、などするなかで、結果的には知らず知らずそれに近いことがおこなわれていたような気がする。
かつてはあった、そのようなアンオフィシャルなエートス継承的な場が、今ではもはや大学院ですらうまく機能しなくなっているように思える。
いわんや学部においておや。


だから、さしあたりはオフィシャルにそれをやるしかないわけだ(昨今の大学で、導入教育が大事だ、と騒がしいのは、そういうことだ)。
そのとき重要なのは、たぶん教員が先手にまわることを極力禁欲して、後手にまわることを心がけることではないか。
まずは、何も言わず何も示さずに、とにかくノートをとらせてみる、とにかく論文を要約させてみる。
その後で、「このノートじゃ、要約じゃ失敗だよね」と叩いてみせる。
何がどういうふうに失敗なのかは言わない(せいぜいヒントを出すくらい)。
何がどういうふうに失敗なのか自体を考えさせる。
ひとしきりそれを議論させ、失敗をリストアップさせた後で、自分たちで対処法を考えさせる。
そうしてから、ようやく対処法の1つの見本――あくまでサンプル――を、教員が示す。
んで、もう一回やらせてみる。


とにかく失敗させ、試行錯誤させること。
先ず教員が見本を示すやりかたをすると、関大生くらいなら、それを上手にまねて、はじめから成功する学生も少ないわけではない。
だから、試行錯誤させるより授業の進行としては効率的だ。
失敗させ、試行錯誤させると少なくとも2回以上かかるところが、1回で済んでしまうのだから。
試行錯誤型は教員が「正解」をもっているわけではないので、それなりの力量(学生の出方に応じたその場その場でのアドリブ対応)と、授業の準備(試行錯誤のシミュレーション)もいるし、その点でも手間がかかる。


しかし、市場原理的(?)には非効率的であろうと、教育的効果を考えると、やはりできるだけ試行錯誤型のほうがよいように思う。
去年1年間受けもった導入教育クラスの学生の何人かが、今年の2年生のクラスにもいて、去年と似たような課題をこないだやってみた。
去年学んだはずのことを少し組み合わせ、応用できれば、こいつらは他の学生よりそれなりに「できる」対応をしてくるはずと期待していたのだが、結果は「う〜ん」。
たぶん、去年と同じ課題であれば、彼ら彼女らもそれなりの対応ができたのだろうと思えるふしはあった。
その意味で、教員「先手」方式で学んだこと、身につけたことは、かなりdomain specificなものにすぎなかったのだろうと思わされた。
応用力ってのは、定義上、マニュアルにそって学んでいけるものではないので、基本的には試行錯誤していってもらうしかない。
そのとき、傍から見ていていかに歯がゆかろうとも、教員は「先手」にまわっちゃいかんのだ。


こういう授業ってのは、ひょっとすると、第三者の目からは教員が手を抜いているように見えるのかもしれない。
だって、先ずは教員は「何もしない」ことになるわけだから。
授業の進行も非効率的だし。
予習をしてきて授業に臨み、きちんと復習するってタイプがよし、とされる図式にも、必ずしもそぐわない(でも、今の授業評価項目のなかには「あなたは、予習・復習をしましたか」ってのがあるんだよね)。
なにより、学生にとってはある意味「不親切」な授業なわけで、学生=お客様という市場原理的な図式が猛威を振るいつつある最近の大学業界においては、サービスが足りん!って受けとめられかねませんわな。


大学(教育)への市場原理の導入がすべからく悪いとはいわない。
私たちの給料の原資を支払ってくれているはずの学生のことを考えずとも、のほほんとのさばっていられる大学教員のはびこるようなシステムがいいわけはない。
しかしだな、それを学生「サービス」とか「顧客満足」に喩えて考えるのは危険だと思うのだ。

Was ich erfinde, sind neue Gleichnisse.
わたしの作りだすもの、それは新しい喩えである。

L. Wittgenstein, Vermischte Bemerkungen


ぼちぼちわれわれも新しい喩えを考えんと。