そうそう、『中央公論』4月号でいうと

本田論文(「対人能力格差」がニートを生む)と原田論文(学力を捨て「ケータイ」へ向かった十代)がともに、若者の「対人能力」「コミュニケーション能力」の向上を言っていたのがおもしろかった。
ニート関係の議論を読んでいていつもちょっとひっかかるところなのだが、ガンガン働くフルタイム就業者にするにはどうするか?ってな問題設定がどうも明示的にであれ暗黙的にであれ前提にされていることが多いんではないか。
ニート的な人びとも含めて、みんなそれなりにワークシェアリングしてぼちぼちやっていくような社会像・選択肢の呈示も、もうちょっとあっても(ないとは言わない)いいような気がする。
いや、そういう社会(制度設計)のほうがよい、と言いたいのではない。
そこのレベルでの選択肢の呈示が、もうちょっといろいろあってもいいのではないかということだ。


「対人能力」が高いことは、ニートにならずにすむから(その理由でのみ)いいわけではあるまい。
また、「対人能力」が高いことはいいことばかりでもあるまい。ものごとにはすべからく明暗両面がある。人づきあい、友だちづきあいに(ある種強迫的なまでに)追われるのって、けっこうキツイよな、と傍から見てても思うことがある。
その点で「学力を捨てて」という暗い面の裏に、代わりに得た「コミュニケーション能力」という明るい面を(あえて?)見いだし、

しかし、子供たちよりもむしろ、時代に対応した『人間力』をつけぬまま、『学力』にすがって過ごす大人たちこそ、懸念すべき生き物なのかもしれない。
いつの時代も、十代は時代を映す鏡である。その時代の良い面も悪い面も彼らが如実に教えてくれる。彼らは、その時代をより快適に生きる力を、最も持っている生き物である。大きなパラダイム変化を迎えたこの「脱力主義の時代」。我々大人が、彼らから学ぶことは多い。


と締めくくった原田論文に、個人的には好感をもった(双手をあげて賛成するわけではありませんが)。
ものごとの明暗両面をみすえたうえでの社会設計の選択肢の呈示が少ない、あるいは、選択肢が呈示されていても特定の選択肢しか力をもたない。そこのところに歯がゆさをいささか感じる。