「装幀の風景(3)」

月刊『言語』に今年の1月号から連載されている臼田捷治さん(現代装幀史)のコラムの第3回。
今回とりあげられているのは、「第5回中原中也賞を受賞した少壮気鋭の女性詩人、蜂飼耳(1974年生まれ)の初めてのエッセイ集」、『孔雀の羽の目がみてる』。

孔雀の羽の目がみてる

孔雀の羽の目がみてる

この批評文が何ともいい。

装幀・本文レイアウトは……菊地信義が手がけた。まず、手に取ってびっくりするのは「チリ」(本文の紙より表紙のほうが大きい上製本の、その出ている部分)が8〜9ミリもあることだ。私はこんなにたっぷりとした幅をもつチリのある本はこれまで見たことがない。あたかも鍔広の帽子をまとった深窓の麗人のようなしとやかさ。
ちなみにチリは、ブリュッセルでルリユール(製本術)を学んだ書物研究家の貴田庄によると、中世ヨーロッパにおいて「花布(はなぎれ)」(上製本の中身の上下両端に貼り付ける布で、本を丈夫にするとともに装飾の役目を果たす)が工夫されたことから、その花布の分だけ表紙が高くなり、やがて上製本の製本スタイルとして定着するようになったのだという。
菊地は雑誌のインタビューに答えて、チリを大きくしたのは、本を書見台に置いたときのような印象を与え、ひとつの「結界」をつくることを意図したためと語っている(『ブレーン』2004年11月号)。そういえば中世の西欧では、本の多くが書見台に鎖でつながれて並んでいた。ふだんは意識することすらない部分に着目し、書物の成り立ちにまでさかのぼるかのような構造性を浮き彫りにする高次の批評感覚は水際だっている。


こういう、単なるデザイン論に落ちない、「メディア論」的な批評センスは、やはり今こそ貴重なのではないかと思う。
たとえば、ケータイのインダストリアル・デザイン(史)について、だれかこういう研究をしてくれないか(自分でやれという話もあるが)。ケータイの情報空間で重要なのは、もはやそこでやりとりされるメッセージではないのだから。
ケータイの「チリ」にあたるもの。それがどのように編成され、編成しなおされてきたか。
ケータイをパカッと“開き”、メールしたり通話したりして、パカッと“閉じ”る。パカパカ式のケータイが普及する以前は、こうした“開き”“閉じ”という行動が、ケータイの情報空間に臨む際の「儀式」として定型化されることはなかった。つまり、ひとつの(情報)世界を“開き”“閉じ”るという、書物と同様のメタファは成り立ちえなかったわけだ。
もちろん、パカパカ式の開発は、大画面ディスプレイの確保という産業技術的要請によってうまれたものであるにせよ、こうしたメタファたちの成り立ちは、そこ(単なるインダストリアル・デザイン論)には回収できない。だから、それをある種の「チリ」――書見台というメタファを成り立たせるような――として見るような視点が案外(ではなく)重要ではないか、と思うのだ。