『トゥルーマン・ショー』とメディア天皇制


先週、講義の時間に『トゥルーマン・ショー』の上映会をして、今日はそれをネタにして講義。
ええ、そうです、北田さんの『広告都市・東京』の話のパクリですとも。
ただ、さすがにまんまパクるだけでなく、いくつか自分なりの味付けは足しましたが。
トゥルーマン・ショー』はいろんな観点から語ることができておもしろいんだが、たとえば「道徳」という観点からはどんな問題提起が考えられるか、という話だとか。


クリストフとそのスタッフたちが完璧に仕事をやりおおせて、トゥルーマン本人は死ぬまでそこ(シーヘブン)が「作りごと」の世界(「現実」ではない世界)――クリストフの一味であるマーロンのことばを借りていえばfakeではなくmerely controledの世界だが――だと知らないままだったとする。
そして、十分に満足して死んでいったとする。
このとき、シルヴィアのように、やはり「作りごと」の世界にトゥルーマンを生かしたことは「悪」だと言えるのか?
確かに「真実」「誠実」ではないかもしれないが。
シルヴィアのような一部の例外を除いて、トゥルーマン・ショーの視聴者たちも、番組から十分な満足・快楽を受け取っていた。
功利主義的な道徳観にしたがえば、(シルヴィアのような例外を除いて)だれもそのことによって不利益を受けていないわけだ。
だとすれば、それを道徳的に「悪」と非難することはできるのだろうか、非難・批判するための足場はどこに求めうるのだろうか?


こういう話をすると、少なからぬ学生さんのあいだには「机上の空論だよね」「現実にはそんなこと起こらないもん、リアリティTVだってトゥルーマンほど極端なことはやってないし」といった雰囲気が漂う。
さて、そこでだ。
「現実にトゥルーマンにきわめて近い立場に置かれた人は本当にいないでしょうか、少なくとも日本には一人というか一家族いるようにも思えます。」
いわずもがなだが「天皇(ご一家)」のことだ。
ちょうどタイムリーな話題であったことも幸いして、机に向いかけていた視線がこちらに戻る。
メディア天皇制という言いかたもあるが、この「ご一家」は生まれたときから、トゥルーマンに似た衆人環視の状態に置かれている。
まあ、メディア表象としては、トゥルーマンのようなリアリティTVよりは、サザエさんに近いところもあるけれど。
NHKの日本人の意識調査によれば、天皇に対する感情は、戦無世代で、「尊敬」8%、「好感」32%、「無感情」57%、「反感」1%である。
80年代以前と比べて、「好感」が増加し、「無感情」が減っていることが特徴的だ(皇室関係のイベントがあるかどうかでもかなり左右されるので、その点、一定の留保は必要だが)。
天皇でなく皇室への感情について設問すれば、おそらく「好感」度はさらにアップするのではないかと思う。
その好感は、トゥルーマンに対する好感と似たところはないか。
そうした好感につつまれ、経済的に困窮することもとりあえず考えにくく、「天皇(ご一家)」が満足のうちに生涯を終えたとする。
そのとき、私たちは先のトゥルーマンに対するのと同じ仕打ちを加えてはいないか?
しかし、そのことを、あるいはメディア天皇制を「悪」として批判することはできるのか、その足場はどこに求めうるだろうか?
かなり問題を単純化したもの言いではあるのだが、道徳論もこういうふうに展開すると、割に学生さんたちの食いつきもいい。
まあ、問題を問題として考えてほしいだけなので、答えは出さないのだけども(笑)


関係ないが、昨日『スチュワーデス物語』のDVDを手に入れたので、何とか話をからめて今日の授業で見せたら、学生さんたちがちゃんと笑ってくれたので、ちょっとホッとしたです。
これに素で感動する学生さんが多かったら、どうしようかと思っていたのだが(笑)