広告批評10月号


広告批評』を買うのはひさしぶり。
学生時代は割とちょくちょく買っていたような記憶がある。
卒業して代理店に就職してからも、仕事柄、よく買ってはいたが、だんだんイヤになって買わなくなった。
だって、編集者(A野Y吉とかS森M子とか)が、広告のことわかってないだもん。
ビジネスとして広告にたずさわってる人間の眼からすれば、あまりに呑気な「批評」で。


「批評」の対象が、広告でなく、マンガやファッションや小説であったとしても別にかまわないようなスタイルの「批評」。
そこでは、広告はひとつのサブカルチャー、文化的生産物=消費物のひとつでしかない。
もちろん、広告もまた、「文化」のひとつであるには違いない。
別に、古くさいかたちでの「意識産業批判」的な視野をもて、と言いたいわけではないが、広告は他ならぬ「広告」であるがゆえのメディア性、「広告性」をもっている。
優れた「批評」というものは、広告(であれマンガであれファッションであれ)を、他のものと等しなみに扱うものではなく、その固有性というか、独特の(文化論的・メディア論的)磁場というかを、どこかで見据えているものではないか。
「小説」を批評するスタイルそのままに「マンガ」を批評するマンガ批評は、どこかしら陳腐で的を外しているように私には思える。
おそらくそういう批評は、マンガ家には「はあ、そーですか」と、他人事のようにしか思えないものだろう。
広告屋だった私にとって、『広告批評』の「批評」とはそういうものだった。
ありていに言ってしまえば、『広告批評』は「広告批評」になっていない、と。


たとえば、今月号の「AD TREND」というコラムのなかでも、元編集長のA野氏は次のようなことを書いている。

ま、最近は温暖化防止をテーマにしたCMも出てきているけれど、その表現はあまりになまぬるい。熱中症で死にかけている地球の現状を、強烈に広告していかないと、とても間に合わないんじゃないか。


熱中症で死にかけている地球の現状」を訴えかけることを、「広告」に求めるこの呑気さ。
バカじゃねえの、なまぬるいのはオマエだよ、としか、私には思えない。
ビジネスとして広告の現場は、おそろしくシビアなものだ(広告に限らず、ビジネスの現場というものはそうだろうが)。
地球が死にかけていようが、商品を売らなきゃ広告にならない、お金がもらえない、地球より先にオレが死んじまう。
というのは、いささか大袈裟にしても、そういうシビアさがビジネスとしての広告にはある。
「それはわかっちゃいるけど」という批評なら、まだよい。
しかし、「わかっちゃいる」なら、こういうぬるい文章にはなるまい。
それは文体の問題ではない。
ぬるい文体のなかにも、シビアな視点をもつことなど、いくらでもできる。
紋切り型だけで広告にもの申して、「批評」などと名乗るな。


それでも久しぶりにこの雑誌を買ってみたのは、かつて代理店時代の同僚だった佐藤可士和くんの特集だったから。
こうやって時系列的に制作物が並べられているのを見ると、半分シロウトの私にも、「いや〜、デザインうまくなったねえ」というのが何となく、でも、よくわかる。
ただ、美祢サーキットのポスターの制作者名クレジットから、コピーライターとして私の名前があるのは消しといてほしかった(笑)
一流ならともかく、三流コピーライターだったもんで。
消したい過去である。

佐藤 だから、広告は面白いなって。でも、ここは勘違いされたくないんだけど、状況をデザインすると言っても、最後は画面の中のものがとても重要だと思ってる。結局そこがコミュニケーションのインターフェイスになるから、そこがダメだと、考えていることが伝わらない。でも、そこだけ考えても意味ないじゃんって思ってしまう。周囲の状況と画面の中、ふたつが両立できていないとダメですよね。
僕には「広告」に対するロマンチックな思いがもともとないんです。こんなのだれも見てないのにっていつも思ってた。会社で打ち合わせしたりクライアントとやり取りをしていると、みんながその広告を見てくれてるって前提で話がどんどん進む。僕は広告なんて、みんなぼさーっと見てるのになあって思ってるから、インテグラのときも、ブラッド・ピットを使うんだから、ブラピがバーンとクルマと一緒に映ってて、あとはインテグラとホンダっていうのがデッカく入ってればいいんじゃないかなって気がしたんです。

(p.61)


広告の受け手が「だれも見てない」「ぼさーっと見てる」遊歩者的存在であることを当然の前提としたうえでの、「コミュニケーションのインターフェイス」=身体性の組み替え。
最近の若手の広告制作者ほど、ますますこのところをダイレクトに狙ってきているような気がする。
広告を分析する記号論的装置が80年代にいち早くマーケティングのツールとして組み込まれていったように、メディア論的装置もまたやはり広告へと組み込まれつつあるということか。