社会調査データで何が言えるか


何かしらの調査データをもとに、何ごとかを言おうとする語り口を聞いていると、その語り手によっては、ものすごい違和感というか抵抗感をおぼえることがある。
それは、調査データを正しく用いることによって確たる「真理」に到達できる、という臭いを語り手が漂わすときだ。
このような語り口は、昨今の「リサーチ・リテラシー」の啓蒙によって、最近ではしばしばいい加減な統計の使いかたのウソを暴く、という体裁をとる。


リサーチ・リテラシーのすすめ 「社会調査」のウソ (文春新書) 谷岡一郎氏の『「社会調査」のウソ』は、私は決して嫌いな本ではない。
数式や専門用語が並ぶ、とっつきにくい社会調査の入門書が多いなかで、そもそもの社会調査の考えかたのエッセンス、根本をわかりやすく説いたこの本は、調査の専門家以外のリサーチ・リテラシーの平均点を確実に上げたと思う。
しかし、この本の書き手のもつ独特のアクのせいか、その「リサーチ・リテラシー」が統計のウソを暴くだけのための武器、梯子外しをするためだけのツールとして、使われることもまた、多くなったような気がする。
ウソを暴く、という、いわばある種の「否定神学」的なかたちで、自らの主張の正当性を言い立てようとすることが。


しかし、「(データによれば)pである」と主張するのはウソだということから、「pはウソだ」(not-pがホントだ)ということは導かれない。
そこから導かれるのは、pと主張することはできないということであって(2階の述語レベルでの否定)、pではないということではない(1階の述語レベルの否定)。
pか、pでないか、ということに関しては、そのデータからは「わからない」「何も言えない」だけなのである。
だから、「pである」ことそのものをウソだと言いたいのであれば、「pでない」ことを別途、より信頼性の高い調査データなり何なりで証拠だてなくてはならない。
そちらの調査データのほうが信頼性が高いことの論証じたいも含めて。
それをやらずに、この調査データはあてにはならない、だから私はそう思わない、こう思う、と言いたてても、「こう思う」ことの根拠をより説得力のあるかたちで示さなくては、結局のところ、独断論にすぎない。


リサーチ・リテラシー――もっと広くいえば、サイエンス・リテラシー――というものは、そもそも何ごとかを正しい(真理である)と断じることへの躊躇、留保としてあるべきものなのではないか、と私は思う。
その躊躇は、それを正しくないとする他者へ耳を傾ける態度、コミュニケーションの回路を開く。
これをあまり大層には考えないほうがいい。
マッツァリーノさんのいう「つっこみ」の応酬のことだと考えたほうがいい。


何の「つっこみ」(批判)も容れようのない完璧な社会調査などありはしない。
どれほど手間ひまをかけて入念に調査を企画・実施しようが、アラを探そうと思えばいくらでも見つかる。
調査とは、本来的に「いい加減」さをぬぐえないものなのだ。
社会調査の専門家は、その「いい加減」さを身をもって痛いほどよく知っている(と思う、少なくとも私はそうだ)。
しかし、そのことを書いた本は皆無に等しい。
あたりまえだ。
社会調査に基づく論文や社会調査の入門書が、「社会調査なんて「いい加減」なもんですよ」と言うのは自殺行為だもんね。
だから、その「いい加減」さは、限られた人たちが院生や駆け出し研究者の時分に、実際に社会調査をするなかで、「身をもって」知るしかなかったのだと思う。


私の院生時分の指導教官は、一年にいくつも社会調査をおこない、それに基づく論文を数多く書いている。
いわゆる調査屋さんの一人と言ってもいいだろう。
しかし、この人のすごいところは、社会調査を心底信じてはいないことだった。
このデータから言えるのは、これくらいのところでしょ。
ま、調査データなんて、それくらいのもんだよ。
はっきりことばで言われたわけではないが(だから、わたしが勝手にそう思っているだけかもしれないが)、そういうデータを突き放して見るというか、見切りの境界をつけるというか、そんなスタンスをわたしは師匠からたたきこまれた気がする。
だからといって、実証的(実定的)な根拠(それは必ずしも調査データでなくてもよい)のあやふやな議論をゼミや研究会でしようものなら、徹底的に凹まされたのだが。


社会調査は「いい加減」だ。
だから、ダメだ、ということではない。
「いい加減」なのだから、それをどう「いい(良い)」加減で使うか――真理/虚偽を一刀両断するのでなく、よい案配に加減して使うか――が重要だ。
その加減のしかたがリサーチ・リテラシーというものなのではないか。


トンデモ科学の見破りかた -もしかしたら本当かもしれない9つの奇説 フロイト先生のウソ (文春文庫) その点でいえば、私は『フロイト先生のウソ』を暴くのに嬉々として興じるだけのデーゲンより、トンデモ度の加減を落ち着いて見きわめようとするアーリックが好きだ。
アーリックはこの本(『トンデモ科学の見破りかた』)のなかで、「重を普及させれば犯罪率は低下する」「エイズの原因がHIVではない」など、9つの学説のトンデモ度を次の5段階で判定している。

  • トンデモ度0 そうであってもおかしくない
  • トンデモ度1 おそらく真実ではないだろうが、誰にもわからない
  • トンデモ度2 真実でない可能性はきわめて高い
  • トンデモ度3 ほぼ確実に真実でない
  • トンデモ度4 間違いなく誤り


「トンデモ度0」であっても(こう判定された学説は3つある)、「そうであってもおかしくない」だけで、「間違いなく真実」ではない。
真実と断じるようなゴーマンなことを、アーリックはしないのだ。
一方、「トンデモ度4」は「間違いなく誤り」と断じる判定値ではあるが、実際のところ、9つのなかにトンデモ度4と判定されたものはないのである。
こういう、何というか、「真理」を断じることへの畏れのようなものをアーリックはもっているような感じがして、そこが私は好きだ。