中西新太郎「若者たちに何が起こっているのか」花伝社、2004


若者たちに何が起こっているのか思った以上に、おもしろい本だった。
著者は48年生まれとあるから、今、56歳か。
藤崎詩織」とか「黒田硫黄」とかがすらすら出てくる団塊世代って、すごくね。
奇跡的にすら思える。
かといって、いわゆる「サブカル」ばかりを論じた本ではない(し、「おいらはオジサンだけど、キミたち若者のこと、こんなによく知ってるんだよ」的な阿りもない)。
少年犯罪・暴力から、就業問題、家族変容、教育問題まで、射程はかなり幅広い。
描きだされる若者像は決して明るいものではないけれども、若者を旧来的な理解の枠組みで分析(つうより糾弾・断罪)するのでなく、問題の所在をきちっと見きわめるための分析の枠組み・軸・尺度自体を組み替え、提示していこうとする。
そのスタンスに何より好感をもったし、こうした研究者が年配層にもいることに励まされた。
議論の内容も示唆に富む。
たとえば、「家族の一体化を要求する九〇年代の変化」(第14話の3節)における、新自由主義的な(家族)政策と権威主義的な家族復権論の協働的関係――それらは一見対立的にみえる――についての次のような指摘(p.255-7)。

文化形象としての家族の「自然な存在」を前提しない描像はますます増えていくであろうが、現実には逆に、家族の凝集を要求し必要とする状況が広がりつつある。なぜか。
まず第一に指摘できるのは、90年代末以降……激烈なかたちで進行している企業車会秩序の転換が、経済的にも社会的にも家族の凝集・一体化をこれまで以上に要求しはじめたという事実である。いわゆるパラサイトシングルやフリーターの増加は、しばしば、青年層の自己中心的なライフスタイル選択と解釈されることが多いけれども(たとえば、山田昌弘『家族というリスク』勁草書房、二〇〇一年、など)、実際には、離家に必要な経済条件を若い世代が整えられなくなっていることの反映とみなすべきである。派遣労働など、急増する非正規雇用条件では、単身で自立した経済生活をいとなむのは困難であり、夫婦共働きで年収四〇〇万水準という、予想される新しい標準をクリアすることにより、かろうじて生活を成り立たせるしかない。もちろんそこでは、夫婦共働きの家族を形成することが不可欠となる。そうでなければ子育てや住居の必要を満たすことは困難になる。つまり、意識のうえでは家族をつくれるのはある種特権的なことがらでありながら、現実には家族がなければ「食えない」ということになる。
第二に、家族の凝集を要求する強い政策的・イデオロギーインパクトの存在に注目する必要がある。『父性の復権』(林道義)といったファミリアリズムの権威主義的再建論がかなりの支持をえているのは周知のとおりだが、それはたんに、家族解体を導く個体化への反発としてのみ理解されるべきではない。林の主張の場合には、……、個体化のような現象は直接の攻撃対象になっていないけれども、「家族の復権」論はおおむね、政府・財界の支配的政策理念としての新自由主義的な自由選択論、個体化の容認にたいして、主観的には対抗している。家族のあり方を焦点としたとき、新自由主義的な政策は家族の凝集を否定する政策をもつとみなされるのである。実際、小泉政権の「構造改革」政策のなかでもにわかに取り上げられた保育所待機児童の一掃計画などをみれば、家族単位の社会政策を変更させる意図が看取できる。しかし、そうした政策は、変化した雇用環境にそって女性労働力を縁辺労働力として再編するところにこそ目的がおかれ、そのかぎりでの再編にすぎない。他方では、個体化がもたらす種々の軋轢を緩和し抑えこむ家族責任の具体化が同時に追求されるのである。
社会問題として顕在化してしまうような矛盾の回避・隠蔽装置として、家族の役割はますます強調されるとみてよい。企業社会秩序がその一環として強い家族主義的なイデオロギーを備えていることは常識に属するが、新自由主義的な社会像もまた、社会的な困難を政府や福祉に頼らず自前で処理できるような「雄々しい家族」を要求する。したがって、この面からすれば、権威主義的な「家族の復権」論は新自由主義的な自由化論とは矛盾しないのであり、むしろ有効な補完作用を果たすといってよい。
最後に、家族関係の変容自体が「純粋な共同性」の世界としての家族像を理想化し希求させることを指摘しておこう。消費社会化は一般に関係の「人為性」と「自然性」とのつながり方を組みかえ、何が「自然の」「本来の」関係であるかをみえにくくする。しかしそのことは同時に、「ナチュラルでありたい」という願望を一層強くかきたてる基盤にもなる。すみからすみまで意識的につくりあげるものとしての家族のあり方は、「家族ならこれが自然だ」という「純粋な関係」の想定を強力に育てる。それは仮想されたものにすぎないが、しかし、家族の凝集を当然の要請とする規範的意識として内面を縛る。


そして、家族は孤立し「小宇宙」化する。
なるほど、子育て(子育ち)がじわじわキツくなりつつあるのは、そういうわけか。