宮台真司・鈴木弘輝編著『21世紀の現実 〜社会学の挑戦』

21世紀の現実(リアリティ)―社会学の挑戦

21世紀の現実(リアリティ)―社会学の挑戦

先週末、鈴木謙介さんより贈本していただく。
ありがとうございます。
買う寸前であったので、ほんとに感謝です。
アマゾンにもbk1にも、章立てまでは載っていないようなので、ご紹介。

第1部 「大人/若者/子ども」のゆるやかな境界
1章.ポピュラー文化の危機 〜ジャニーズ・ファンは“遊べているのか”(辻泉)
2章.友達母娘のなにがわるい? 〜「家族の中の若者」という視点(中西泰子)
3章.「ゆとり」に惑わされる生徒たち 〜社会システム理論からみる学校教育の現状(鈴木弘輝)


第2部 社会関係を通じて構築される「私」
4章.「人」を愛するとはどのようなことなのか? 〜「愛」の社会的機能(金田智之
5章.思い出をつくる若者たち 〜現代的自己の記憶論的アプローチ(角田隆一)


第3部 国家からの自由/国家が基礎づける自由
6章.韓日マンガシステム比較 〜週刊マンガ雑誌と、作家たちの世代論(イー・ヒョンソク)
7章.その先のインターネット社会 〜アーキテクチャを支える思想へ(鈴木謙介


終章.社会学からの全体性の脱落に抗して、いま何が必要なのか(宮台真司


7章→終章→1章→2章と読んで、あとはまだざっと目を通しただけの段階ですが、これは「買い」の一冊。
各論文とも、とても「きちん」と書かれているし、私の目下の研究テーマと関わりの深い論文も多くて、勉強になりました。
大学院ゼミとはいえ、こういうアウトプットを出せる宮台ゼミというのは、本当にうらやましい。


冒頭の「本書のねらいと構成」にあった次の部分、これはうちのゼミの卒論指導にも使えそう。

…各章の形式についてであるが、…全て4つの段階(節)で構成されており、それぞれの段落(節)は以下に示すような役割を帯びている。


【1:各テーマの社会的意義】
各章が、どのようなテーマを取り上げるのかを示す段階である。それぞれのテーマは、各章の冒頭で例を示しているように、様々なメディアで取り上げられているものばかりである。この節では、それらに関する情報が、周辺的なものも含めて簡潔にまとめられている。ただし注意していただきたいのは、執筆者各人のテーマは奇をてらって選ばれたものでも、単に「流行っているから」という理由で取り上げたというものでもない、ということである。これらは、各人が「これだ!」と感じ、「現代の社会を読み解く鍵であるに違いない」という「熱い思い」のこもったものばかりである。


【2:各テーマの社会学的意義】
各章でのテーマが、社会学研究史上においてどのように位置づけられるのかを確認する段階である。そのテーマを取り上げることが社会学的にどれだけ重要なことであるのか、あるいはこれまでの社会学の展開に鑑みて、あらたな枠組みを必要とするものなのか、それとも、忘れられていた過去の議論の再導入が必要なのか、などに触れられている。この段階において、各人の「熱い思い」が独り善がりなものではなく、社会学研究にとって重要なものであることが示される。


【3:社会学的な本論の展開】
1節で示された各人の「熱い思い」を伝えるための方法として、社会学的知識や社会学理論を動員する段階である。各人は、自分の「熱い思い」が社会全体の中でどのように位置づけられるのかを社会学的知識や理論によって計測し、その作業を通じて、本当に独り善がりでない社会事象の捉え方を模索する。なぜそのような段階をおくかといえば、それは各人がその事象に対する「冷静な頭脳」を獲得することが目指されているからである。ここで各人は、人によっては自らに冷水を浴びせかけるという辛いことであるかもしれないような、「社会学を通じての相対化」を経験する。


【4:社会への投げ返し】
各人が、自ら導出した知見を現代の社会にどう生かしたらよいかを示唆する段階である。「社会学を通じての相対化」を通過することによって、各人が取り上げたテーマに対する見方や考え方がどのように変更されるのか? 変更された見方や考え方から、現代の社会状況に対するどのような代替案を、あるいは代替案への展望を提示できるのか? これこそが各章の、そして本書の最終目的である。


本来、(社会学の)論文ってのは、こういうものであるはずでしょうし、ちゃんとした論文の書き手というのは、特に意識するともなく1〜4の要素をおさえた書き方をしているように思えますが、しかしそれはそれ、「コロンブスの卵」なわけで。
少なくとも学生に論文の書きかたを指導する際には、こうした(研究者にとっては)暗黙的な了解を明確化した「型」がいくつかあると、とてもありがたい。
これだけ優れた論者が集まったこの本であっても、1〜4の構成(編集方針)をあえて明確にかかげることで、各論文が「きちん」と引き締まったものになった効果は、多少なりともあったのではないかと思う。
まして、初めて論文なるものを書こうとする学生さんたちにとっておや。
「型」を守らないと、打てるヒットも(ホームランは決して求めない)打てなくなる。
「型破り」な論文なんてものは、めちゃくちゃに足腰がしっかりしてないと――少なくとも卒論レベルでは――書けないのだ。
したがって、はい、私には「型破り」な論文はとても書けませんです。


しかしながら......
卒論指導で最大の関門は、まずこの1〜4の前提である【0:「熱い思い」をいかにしてもつか(もたせるか)】ってことであったりする。
こればっかりはどうすりゃいいものやら。
「熱い思い」を学生さんといっしょになって発掘するしかないのだけれど、けっこう体温の低い学生さんも多いし。
かといって、「熱い思い」を植えつけるような洗脳めいたことはしたくもないし(笑)


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