増殖

最近、仕事を1つ片づけると、新たな仕事が2つ来るような気がする。
1歩すすんで2歩さがる、って感じ。
仕事ってやつは片づけないほうが、増えなくていいのかもしれない(笑)


先週末は、高校出張講義の話が2つやってきた。
いわゆる高大連携プロジェクトというやつ。
両方引き受けてると、休みの日がなくなってしまうので、片方だけお引き受けする。
正直、この「出張講義」というやつはツライ。
この少子化のご時世(こればっかだ)、力関係でいうと、明らかに高校が上、大学が下。
われわれは「来ていただく」側ですから。
むろん、大学教員が無条件にエライなどとは思っておりませんが、本務であるはずの教育・研究の時間をつぶして行っているのに、「呼んでやっている」という態度を先方に示されたりすることもなきにしもあらず。
先方はある種クライアント(お得意先)であるわけですから、ぶちぶち文句言ってちゃいけないのですが。
願わくば、今回の出張講義先は、そういう「お得意先」じゃありませんように。


橋本治『上司は思いつきでものを言う』(集英社新書)を読んでいて、ふと大学にとっての「現場」はどこなんだろう、と考えた。
部下は現場を知っている、上司は現場を知らない。
だから上司は思いつきでものを言う。
ものすごくおおざっぱにいうと、そういうことを書いた本だ。


私たち大学教員が、とりあえず直接知っている「現場」というのは、大学にいる学生を教育する「現場」であり、自らのテーマを研究する「現場」だ。
少なくとも私学の場合、経営者側は後者(研究)を「現場」だとは思っていない。
あんなのは教員が趣味でやってるようなもの、というのが経営者側の本音である。
だって、大学にとって直接お金を稼ぎ出してくる「現場」じゃないから。
授業料と入学金を稼ぎ出す「教育」のほうが第一の「現場」。
「研究」しないと「教育」のネタがなくなるので、「研究」はしぶしぶ「現場」の一部として認めている(かどうかすらも怪しい)くらいのもの。


むしろ経営者側にとって「教育」の次に大事な「現場」は、「受験(生)」およびその予備軍である。
ここのサービスに、上司たる経営者は部下たるわれわれ教員を駆り出すわけで、そのこと自体はまちがっちゃいまい。
問題は、われわれがそっちの現場(高校)を知らない=われわれにとっての「現場」でない、ってことだ。
この点からいえば、実は高大連携なるものに大学教員を駆り出すのは「上司の思いつき」でしかないのかもしれない。
そっちの現場を確かにわれわれ教員も知る必要はあるだろう。
しかし、業務内容の異なる「現場」を3つもかけもちさせられるのは、正直キツイ。
そのキツさを上司が知っているように思えないと、そのキツさは倍加する。


私の勤める大学は、まだ「関関同立」なぞと言われているところではあるから、かなりマシではあるはずなのだ。
だから、「文句いっちゃいけない」と言われればそれまでなのだが、黙ってると「そういうもの」「当然のこと」としてまかりとおっていく。
いや、「文句をいう」というより、橋本治氏の本にしたがえば


(°Д°)ハァ?


と「あきれる」くらいはしておくべきなのだ、上司の思いつきに対しては。
高大連携が「思いつき」というのではない。
高大連携は今後の大学にとって必要だろうし、社会的に重要でもあるだろう。
高大連携→大学で教育を担当しているのは教員→高大連携は教員の仕事のうち、というのが「思いつき」なのだ。
これが会社であれば、広報部のしごとの「現場」を知らない人間に、営業部の人間を徒手空拳で行かせるだろうか。
営業内容を広報してこい、ってひと言でもって。
基本的に別スタッフがこの「現場」(高大連携とか)には必要なのだ*1
兼務をさせるならさせるで、これらが別の「現場」であること、兼務という大きな負担を強いること、であるがゆえに組織的なバックアップが必要であること、を上司としては認識だけはしておいてほしいと切に思う。

*1:「高大連携推進事務室」ってやつは私の大学にもある。言うまでもなく、問題はそーゆーことではない。高大連携の(高校向けの)窓口を作るだけじゃなくて、出張講義に行く教員の実質的バックアップをしてくれ、つうことだ。せめて、各種の試験監督の負担だけでも減らすとかさ。「できる」教員にしごとが集中しすぎ、つうと自分が「できる」教員だつうことになるから、「できない」教員を避けないようにしてくれ、とでも言っておこう(笑)。あ〜、これってまさにグチだなあ...