自己へのウィトゲンシュタイン的(?)接近


浅野氏の議論を読んでいて、ちょっと気になること。
自己(物語)の「穴」は、そもそも他者の位格に空いているものではないか、ということ。
それが自己のうちに空いているようにみえるとすれば、それは自己(物語)が成立・発効したことの(事後的)効果として、そのように見えるのではないか。
自己なるものをもたない(ように現象する)パーソンはおそらくありえそうな気が私はする(むろん「パーソン」をどう定義するか次第だが)。
そうしたパーソンのありようのうちには、自己のうちにでなく、他者において「穴」が空いている状態がありうるのではないか。
この点について、浅野氏が考慮の外においているとはまったく思わないのだが、自己(物語)という「フィクション」「仮定法的な状態」が成り立つためには、「他者との関わりがどうしても必要となる」という言い方がなされるときに(前掲書p.211)、ちょっとひっかかりを感じてしまう。
他者なき自己(物語)を構成しようとすると、そこには「穴」の存在が必然的に露呈してしまう、その露呈を「仮定法的」にごまかすための構成要件として、他者が必要なのだ、というふうに読めるからだ。
他者なき自己(物語)の構成は、そもそも「穴」の空いてしまうような自己(物語)を――ていうか自己(物語)そのものを――構成しえない。
「自己」が立ち上がるときは、必然的に「他者」も立ち上がる(ああ、何とも雑駁な言い方)。
そのとき、「自己」と「他者」のいずれに「穴」を位置づけるかは、ある意味で論者の趣味の問題ともいえる。
私は、そうした趣味の問題としては、どっちかってえと「他者」のほうに位置づけたいのだが。
まあ、趣味の問題なんで、ホントどっちでもいいんですけども。


何を言いたいのか、何がひっかかるのか、自分でもさほど明確にできていないのだが、たとえば。
「死」というのは、どうやったってフィクションとしてしか理解しえない。
現実的な経験(の共有)として、それを理解することは不可能だ。
私が「死」を経験したとき、すでにそこにはその経験主たるはずの〈私〉は存在していないのだから。
他者の(3人称の)「死」と、〈私〉の(1人称の)「死」。
同じ「死」ということばが使われ、同じことを意味するものと思われてはいても、その意味するところはまったく異なる。
これらの「死」(複数形の「死」-s)が、なぜかしらその言語使用において意味を重ね合わせられるところに、「自己」‐「他者」の問題構成――「穴」――が出来する。
経験を超えた意味をもつ言語をわれわれはいかに理解しうるのか、という言語学的問題は、したがって、「死」とは何か、「自己」「他者」とは何か、などなどのきわめて哲学的な問題とダイレクトにつながっているわけだ(言わずもがなだけど)。


こうした事態、すなわち、同じことばが用いられはするけれども、その意味(言語行為としての性格)はまったく異なっており、しかしながら、共通した意味(あるいは概念・言語行為)を有することばとして私たちのあいだで流通している、という事態を、徹底的に考察しようとしたのが(これも言わずもがなだけど)ウィトゲンシュタインだ。
たとえば、1人称と3人称での「痛い」の違いについて。

我々人間には自己の状態を仲間に知らせるために自然に備わっている様々な反応がある。たとえば痛ければ叫んだり、泣いたりして、それを仲間に知らせようとする。こうした反応が自然的表出である。……。ウィトゲンシュタインの新たな理解の出発点は、「私は痛い」という発話は私の感覚の直接的記述などではなく、泣いたりわめいたりする自然的表出の代理である、という考えである。泣いたり、わめいたりする代わりに「痛い」と言うことを覚えることにより子供は「痛み」という言葉を覚え始めるのである…。「私は痛い」という発話は自分の状態の記述ではなく、表出なのである。……(略)……。
では、「私は痛い」が痛みの表出であり、訴えであるなら、「彼は痛い」という分は何を意味するのだろうか。同情を意味する、これがウィトゲンシュタインの解答である。
……。
「彼は痛い」と言うことにより我々は彼の行動から痛みを推測したり、行動を記述しているのでなく、彼は改善や援助を必要としているという認識を、「できるなら何とかしていやりたい」という自らの態度で示しているのである。こうした態度のうちに示された認識が「同情」なのである。我々は「彼は痛い」という記述を行なった後、彼に同情するのではなく、「彼は痛い」と言うこと自体が同情の振る舞いなのである。そこにおいて認識と態度は不可分な一体のものとして存在している。「同情とは誰か他人が痛がっているという確信の形式である」という『探求』§287の言葉はこうした理解を簡潔に示したものである。この新しい「痛み」概念によれば「私は痛い」と「彼は痛い」の違いとは「他者に訴える」ことと「他者に同情する」ことの違いであり、異なる二つの認識の違いではなく、異なる二つの態度の違いなのである。

鬼界彰夫ウィトゲンシュタインはこう考えた』講談社現代新書、2003年、p.322-4)

それゆえ「痛み」とは感覚の名でなく、人間がこのようにして習得する複雑な劇の題名として最もよく理解できるだろう。言語を習得するとは単に言葉の使い方を覚えることではなく、こうした劇を数多く体験し、マスターし、それを通じてより幅広い感情・認識・態度を自ら「知って」ゆくこと、それらを自ら生きてゆくことなのである。それは我々の生の様々な型を体得する過程であり、人間という存在になる過程そのものである。言語とは我々の内と外にあらかじめ存在するものを表現する手段ではなく、我々という織物を織り上げている糸なのである。言葉を話すとは(従って人間であるとは)こうして編み上げられた生の形を自ら生きることなのである。我々は生き物として痛みを感じ、人間として「痛み」を生きる。

(同上書p.326-7)


ウィトゲンシュタインの「家族的類似」という用語なども――認知心理学の概念(形成)研究などではごく浅薄な扱われかたしかしないが――むろん、こうした文脈で理解されなければならないし、前期の「論理形式(logische Form)」に対せられる中・後期の「生の形式(Lebensform)」も、この文脈で解さなくては訳が分からなくなるだろう。
ウィトゲンシュタインは、その著作のアフォリズム形式によって断片的な思索家とみなされたり、そもそも何の問題を考えているのかわからないと思われることがしばしばだが、私はきわめて緊密に問題のより糸を(それこそ家族的類似的に)編み上げた哲学者だと思う。


彼にとっては、すべての問題(系)が密接に絡み合っていた。
それをゴルギアスの結び目的に一刀両断にしたりせず、問題を分割してとりあえず答えのだせそうなところから答えていったりもせず、編み目のもつれぐあいを全体として見据えようとした希有な哲学者だろうと思う。
彼の問題意識のなかで、〈私〉をめぐる問題のより糸は、初期から一貫して重要な位置を占めている。
しかし、それを解きほぐすために、「痛み」であるとか、「家族的類似」であるとか、一見迂遠におもえるところから(も)考察を進めていった。
その考察がどこにたどり着こうとするものであるか、迂遠に思えるやりかたをとっているがゆえに、ウィトゲンシュタインの論はわかりにくい。
しかし、その迂回路は実はきわめて正しくオーソドックスな道筋ではないかと私は思う。
道半ばにして彼が亡くなってしまったのは、まことに残念というほかないが、余命があと100年もあれば(笑)、ウィトゲンシュタインの論がどこに向かおうとしていたかはもっとわかりやすかったのではないだろうか(優秀なウィトゲンシュタイニアンたちによって、彼の向かおうとしていた先は着実に明らかになっていると思うが)。


私はウィトゲンシュタインの1億分の1も才能はないが、志だけはウィトゲンシュタインをわずかなりとも継ぎたいと思う。
一方で、若者のコミュニケーションや意識や「自己」のありようについて数量的な研究をやり、もう一方で、語用論や言語哲学などをかじりながらことばの意味なるものを延々と考え続けているのは――自分でも二足のわらじを履いて全然関係ないことをやっているような気がするのだが――そもそもはそういう思いがある(てゆうか、そうなんだと最近気づいた)。
完全に二足のわらじのまま死んでしまいそうな気も、すごくするのだけれど(笑)。