too tired

体力的に、つうより神経的に。
われながら衰えを感じたこの一週間であった。
そのため、木曜5限の講義は急遽休講にすることに。
前日になっての掲示ですいません。>受講生のみなさま
100人単位の大講義ってのは、舞台パフォーマンスにも似た一種独特の神経的なテンションが必要なもんで(私の場合はですが)、今回はちょっと90分もテンションがもつか自信がなかったんすよ。
途中でふつっとテンションが切れて、舞台を頓挫させてしまいそうな悪寒がしたもんですから。
けっこう久々にウツだ。
氏のう(笑)


それでも、今日は「教育懇談会」つう、わが大学のいわば「PTA総会」だったもんで、日曜にもかかわらず大学にでてきて、学生さんの親御さんとしっかりお話をさせていただきましたが。
しかし、今回の休日出勤手当にあたるもんは確か1000円に満たなかった記憶があるのです。
別途、教育後援会(PTA)から三輪そうめん(これがホントにうまい)もいただけますし、授業料を払っていただいている出資者の方々に大学としての説明責任を果たす株主総会のようなものなんで、文句を言っちゃあいけないと思うんですけど、気分はやっぱり「とほほ」が本音だったりしますです。


それはともかく。
私の場合、ウツに陥っていても、相手や場によっては、それなりのふだんと変わらない応対ができる。
できるっていうか、ふだんの状況定義や相手との関係に応じたコミュニケーションモードに、自分の精神状態とは別に、自動的に切り替わってしまうようなところがある。
些末な例でいると、東京弁を話すのが常態の状況では、意識せずに東京弁に切り替わるし(そうゆう私しか知らない相手にはこれまでほとんど関西弁ネイティブだと気づかれたことはない)、関西弁を話すのが常態の状況では、自然に関西弁がでてくる。
むしろ、東京弁で話している状況で、「えー、関西の人なのー、関西弁話してみてよ」と言われると、かなり気持ち悪いイントネーションの関西弁しかでてこない。
意識的な使い分けのほうがむしろ難しいのだ。
若者論を中心に、最近よくあちこちで引用していただいてる私の議論――自我の多-中心図式とキャラの切り替え(むしろ「切り替わり」)――は、まちがいなくこの個人(史)的経験に由来している。
私にとっては、むしろ状況一貫的なキャラを保つほうが難しいし、不自然なのだ。


状況依存的なキャラとしては、たぶん今も、それぞれの状況での「辻先生」「辻くん」「辻さん」は、ふだんとそんなに変わらないだろうと思う。
かなり疲れてるようには見えるだろうけど。
それでも自分の、なんていうか「芯」のようなところでは、いささかウツに陥っている。
だから、この一週間(とたぶんあと一〜二週間)は、ちょっと精神的にキツイ。
その「芯」というやつはたぶん、自我・自己の(状況一貫的な)「核」や「中心」とは、またちょっと違うようなものに思える。
いや、「芯」というのは、おそらく不適切なメタファで、キャラをゆるやかにつなぎあわせている「より糸(strand)」のようなものか。
むろん、その「より糸」も一本がすべてのキャラを貫通しているわけではなくて、複数のより糸がそれぞれキャラのいくつかずつをつなぎ、それらが総体となってパーソナリティ(自我)をとりあえずまとめているのだろう。


浅野智彦氏がその自我論の中核部分でにらむ自己言及性のパラドクスのようなもの――「どのような自己物語にも十全な一貫性や自己完結を内側から阻むような「穴」が空いているということ(『自己への物語論的接近』勁草書房、2001年、p.16)――は、このような「より糸」の複数性によって、ごまかしえているのだろうと思う、ごくおおざっぱな言い方をすれば。
だから、自我というようなものは、本来的に単数形selfではなく、複数形selvesであるほかない。
その「より糸」を「物語」という言い方で名指すことの適否はとりあえずさておくとして、それをつむぐ(物語を生成する)デバイスが、今の私についてはちょっとへたってるんだろうな。
さしあたりはスピンドルを少し骨休めさせて、手持ちのより糸でごまかしていくしかないわけだが、どうもこの状態に陥ると、スピンドルが勝手に空回りしつづけてしまって疲れてしまうところがありまして。
夜も疲れてるのに、妙に神経がたっていて、眠りが浅く、不眠症気味。
まあでも、この週末はけっこうよく眠れた。
さすがにスピンドルも空回りに疲れたようで、回復基調にむかうでしょ(と思いたい)。