これって大学教育の放棄かも


日経4月21日朝刊より。見出しは「国連ボランティアに単位認定/関学大奨学金も支給」

関西学院大は…ボランティア活動への参加を奨励しようと、国連ボランティア計画(UNV)の一員として発展途上国で活動した学生に八科目分の単位を与え、奨学金も支給することを決めた。休学や留年をせずに国際貢献できるように後押しする制度。……。
関学大は昨年十月、UNVとの間で、アジアの大学として初めて協定を締結。派遣した学生が約五か月間の滞在を終えてリポートを提出すれば、十六単位を与え、奨学金約30万円を支給する制度を設けた。
……。
UNVとの橋渡しをした村田俊一・総合政策学部教授は「海外でのボランティアは、現地の人々とのコミュニケーションや臨機応変の判断を求められ、生きた勉強になる。大学の教室以上に学ぶことが多いはず」と成果に期待している。


ボランティア活動をすること自体には私も別に反対ではないし、教育的意義・効果があるだろうことも認める。
しかし、そちらのほうが「大学の教室以上に学ぶことが多い」はずであれば、大学に来る必要ないじゃん。
「大学生として」やる必要ないじゃん。
なんで「大学として」単位与える必要があるのだろうか、大学がタッチしていない教育効果に対して。
と、いささか単純ではあるが、思ってしまう。
もちろん、これだけの記事からは、そのボランティア制度がどのようにカリキュラムに組み込まれているかはわからないから、速断はつつしむべきだろう。
とは思うけれども、もし仮に、行って帰ってきてレポート提出で単位認定、というような、ただそれだけの制度であるなら、それは大学教育の放棄であり、手抜きであり、自己否定ではないか。
「大学生として」ボランティア活動をおこなうことが、一個人としてそれをおこなう以上に、少なくとも学習・教育の面で違いがでてくるようなカリキュラム(ボランティアに行く事前事後の教育カリキュラム)が組まれていなければ、大学としてボランティア活動を促すことの意義はないと、私は思う。
大学生さんたちがボランティア活動をするのはすばらしい、それを大学が支援するのはすばらしい、というふうに、おそらくは単純に思われてしまいがちだろうが、これは大学教育の意義そのものを問う試みであるのではないか。
大学の教室では学べないことは、もちろんある。
しかし、大学の教室で学ぶことは、教室の外で学べることであってはならんはずだし、ましてそれ「以下」であってはならんはずだ。
ささいな言い回しの揚げ足取りめくが、「大学の教室以上に学ぶことが多い」という言い方に、どうもひっかかってしまったのでした。