団塊の世代


そういや橋爪大三郎さんが、団塊の世代についてちらっと何か書いてたなあとふと思い出し、ぱらぱらめくる。
あった、あった。
『永遠の吉本隆明』(洋泉社新書y、2003年)のp.50-2より。
こうゆうふうにこの本を引くのは邪道だとは思うのだが(話の本筋じゃないし)、とりあえず。

その効果[吉本の著作が団塊世代の知識学生におよぼした影響]には、二つの側面があります。
一つは、万能の批判意識が手に入ることです。
現実に妥協して党派をつくったりする共産党新左翼セクトは、権力をその手に握ろうとしていて、純粋ではなく、失敗を約束されている。ですから、個々人はそれに加わらないことで、共産党新左翼に対する優位を保つことができる。しかも自分は、テキストと祈りの生活を送るわけですから、自分の知的活動自身を肯定できる。そして、……これが唯一正しい生き方であると考えることになる。倫理的にも道徳的にも、政治的にも。つまり、非政治的なことが、政治的に正しいことになるわけです。もちろん、自民党的リアリストよりも、優位に立つことにもなる。それは、彼らが現実の利害に妥協し、権力を手にしているからです。
もう一つ、同時に、この全能感の裏返しとして、まったくの無能力の状態に陥ります。現実との接点をもてなくなるわけです。文学を続けていくか、あるいは、一杯飲み屋で吉本思想をもとにクダを巻くことはできるけれども。では、現実にどうやって生きていくか、となると、生活者として生きていくということになる。……。それがサラリーマンであり、役人であり、塾の先生であり、その他さまざまなふつうの職業です。
そうすると、信仰と祈りの生活ではなく、世俗の生活が待っているわけです。はじめは世俗の生活を週六日やって、残りの一日を信仰と祈りの生活にあてているのだけれども、そのうち信仰と祈りがだんだん遠のいて、完全な世俗の生活と区別がつかなくなってしまう。
しかしそこには、でもそれでいいんだ、という、最初の自己肯定があるわけです。これが団塊の世代の「ずうずうしい転向」というヤツですね。全共闘でさんざん勝手なことをやっておきながら、のうのうとサラリーマンになり、年功序列で上のほうにあがっていったり、郊外に一戸建ての家を買ったり、たまには海外旅行に行ったりする。なんだあいつら、ちゃっかりいい目を見ながら、酒場でクダ巻いてとか、そんなことを言われているのに気がつかない。そういう鈍感さに結びつくのですね。この世代の人びとは、内面に忠実に、同時代と距離をとり、端的に生きてきたつもりなのですが、その結果、いちじるしい鈍感さを生むわけです。後ろの世代に言わせると、とても目障りだ、もうどうしようもない、口もききたくない、早くあいつら消えて無くなれ、というような感じですね(笑)。企業のなかでの年齢構成の問題や、その他いろいろな要因がからんでいるのでしょうが、給料は高いのに戦力にならず、ブーブー文句を言うばかりで、邪魔にされている。


ふむふむ。
しかし、昨日もここに書かれていることを体現しているような、とある団塊全共闘世代の人の話になり、『南海ホークスがあったころ』の著者として有名なN先生が「あの世代特有のしごとの流しかた(スルーのしかた)」と形容するのを聞いて、思わず笑っちまいました。