「レモン市場」問題とネット

今朝(04.3.23)の日経朝刊で連載開始された「けいざい心理学」の第1回。
寄稿者は、信頼研究で著名な社会心理学者の山岸俊男氏。
情報の非対称性が存在する匿名市場では「レモン市場」化の問題が発生する。
「レモン」とは、表面的にはちゃんとしているように見えて中身に問題のある中古車のことを指すアメリカの俗語だ。
こうした商品ばかりがでまわると、市場の信頼性が失われ、商取引関係が成り立たなくなる。
これを解決するひとつのやりかたは、マグリブ商人(11世紀の地中海貿易で活躍した商人グループ)の集団主義的な排除法だ。
身許の知れた相手を取引先に選び、自分を裏切った相手はその評判を仲間に広め、今後はだれもが雇わないかたちで対応する。
こうした「関係を外部に閉ざし、その関係の内部に安心できる環境を作り出す」ような社会秩序の作りかたを、山岸氏は「安心社会」と呼ぶ。
いうまでもなく、いわゆる(旧来の)日本的な社会秩序のありようも、これである。
マグリブ商人はこのやりかたで一時、地中海貿易の覇権を握るが、やがてジェノバ商人に取って代わられる。

ジェノバは、マグリブのような集団主義的なやり方での…解決の代わりに例えば裁判所などの社会制度を作った。社会制度をつくるにはコストがかかるため、評判を用いる方が一見有利に思える。しかしコストをかけて社会制度を整備することで、外部の人間がジェノバ人を相手に商売をしたがるようになることが、結局はジェノバの勝利につながったと考えられている。


さて、ネット市場の場合は、マグリブ商人のように閉ざされた関係を保ちにくい。
悪い評判を広めたとしても、新しい名前(あるいはID)で再参入してくればいい。
なので、評判を使ってネットでの商取引を正直なものに保つのはきわめて難しいはずだが、「イーベイ…などのネットオークションの研究では、不正直な取引は…理論的な予測値に比べると非常に少ないことが明らかにされている」という。
なぜネット市場では理論的予測値より「だまし」が少ないのか。

研究者たちは、まず、評判情報共有のコストが極めて低く、また迅速な点を指摘する。ネットの世界では全員に一気に情報を配ることができる。評判によるコントロールの力の弱さを、量とスピードによって補っているというわけである。


これに対して、山岸氏らはネット市場では、マグリブ商人の場合と評判が果たす役割がちがっている可能性を考え、架空のオークションサイトを設置して実験をおこなった。
その結果、取引者たちが互いに評価を付けあえるようにすると、確かにレモン市場化を抑制する効果がみられるのだが、ただし、悪い評判の付いた取引者が名前を変えて再参入できるようにすると、やはり評判情報の効果は薄くなることが確認された。
一方で、悪い評判ではなくよい評判(ポジティブな評判)の効果は、名前を変えた再参入可能性にあまり影響されない。

面白いことに最初はネガティブ評判の効果のほうがポジティブ評判の効果よりも大きい。ネガティブな評判をつけられることに対する人々の心理的な抵抗感が高いためだと考えられる。しかし、ネガティブな評判をつけられた人が名前を変えて再参入を図るにつれネガティブな評判の効果は次第に落ちてくる。これに対してポジティブな評判の効果は…しり上がりに大きくなってくる。
…ポジティブな評価を得た人はそのポジティブな評価を継続しようとする。これが、ポジティブ評判が名前を変えての再参入が可能な状態でもうまく機能した理由であると考えられる。
この結果は、評判には「追い出し」作用と「呼び込み」作用の二つの作用があることを示す。


開かれた市場の典型たるネットでは、評判の作用が逆向きであり、遠心的(悪い評判をつけて相手を自分(たち)から追い払う)のではなく、求心的(よい評判をえて相手を自分(たち)に引きつける)にはたらくことによって機能する、というわけだ。

これが、ネット市場でポジティブな評判が果たす「呼び込み」作用である。要するに、個人のブランド化だと言ってもよいだろう。
開かれた社会ではポテンシャルな相手は無限にいる。したがって、ポジティブな評価を獲得する誘因は極めて大きい。われわれは今まで、評判について、追い出し作用しか考えてこなかった。しかしこれからは、もっと呼び込みの面から評判を考えていく必要があるだろう。そういったことを、この実験の結果は我々に教えてくれる。


なかなか示唆に富む実験研究だと思う。
商取引だけでなく、匿名掲示板やブログなどのコミュニティサイトについての応用研究もできるだろう。
インターネット以前のパソコン通信の電子会議室は、マグリブ商人方式で成り立っていたのかもしれない。
大規模な匿名の他者に開かれたネットでは、それがそのような方式としてはうまく機能しなかった。
私のようなパソコン通信から入った人間は、だからそこに嫌気がさして、長らく2ちゃんなどには見向きもしなかった(おかげで、その社会(学)的意味あいがつい最近までわからなかったし、バカにしくさっていた)。
はてなのようなブログコミュニティと2ちゃんのような匿名掲示板コミュニティの差も、「呼び込み」作用というところから考えていけるかもしれない。
もちろん、はてながこれからどう変転していくかはわからないけれども。
かなりおもしろそうなテーマなので、ちょっと調査・実験計画をたててみようかとも思う。
だれか他の人が、とっとと研究して成果を発表してくれると、自分でやる手間が省けてそれが一番ありがたいですが(笑)。
そういう研究、もうやってる人がいるよ、というのを知っている人はぜひご一報を。