読書メモ(承前)


大澤真幸「神は細部に宿るか?」『d/SIGN』6号、2004年
オタクの細部への拘泥を、欲望の換喩的移行様態においてとらえ、「神」=全体性が「細部」=部分に宿ることが可能かを、落合仁司の(可算/非可算)無限概念による神学論によりつつ論じる、いかにも大澤さんらしい論考。
こうゆう、オタクの萌え要素−「神」−カントール対角線論法をむすびあわせて話を進めるアクロバティックな議論展開、大澤さんはホントにうまい。
身体のひねりぐあいがなめらかというか。
基礎体力がちゃんとあってこそのことでしょうが。
飯田隆さんのいうように「数学や論理学の定理から何らかの哲学的結論が引き出されるといった類の議論に対しては、すべからく眉に唾をしてかかるべきである」(パトナム『実在論と理性』に付された解説、p.373)という留保はむろん付けねばなりませんが、哲学ならぬ社会学的結論ということで、ま、いっか。

…オタクの欲望の対象が、すなわち彼らが執着する「細部」が、換喩的な性質をもっていることに注目しなくてはならない。欲望の対象が、隣接性の原理にしたがって、次々と遷移していくのだ。……。こうした様相を最もよく示しているのが、(特にアニメの)オタクたちが「萌え要素」と呼んでいる対象に対する彼らの態度である。……。あるキャラクターにおいて、新しい萌え要素が見出されると、オタクたちは、同じ萌え要素を有する他のキャラクターをも収集し、分類し、そして系譜関係を確認しようとする。さらに、オタクたちは、新たな萌え要素を次々と発見しては、同じような操作を繰り返す。結果として、何が出てくるのか?萌え要素によって分類された、大規模で包括的な…データベースである。……。
なぜ、欲望の対象が換喩的に移行していくのか?その対象が、つまり個々の細部が、それ自身としては、欲望の真の目標ではないからである。欲望の真の目標は、究極の――理想的な――データベースにおいて実現されるような「全体」だったのである。「細部」は、未だにその十全な姿を現してはいない全体の代理物である。それゆえ、個々の細部は、常に、その度に拒否されていくのだ。……。こうして、換喩的な移行が必然化するわけだ。

(p.119)

ちょっと粗いところもある議論だが、欲望の換喩的・指標記号(インデクス)的移行という指摘自体はよくわかる。
ここでも書いたが、2ちゃん語なんかもそうした換喩性をもってるし。
一方、たとえば大塚氏のいうような、80年代の文化‐社会的心性を彩った「物語消費」などは、提示された記号の背後に、全体的な意味世界(物語世界)を読みとろうとするという点で、むしろ象徴記号(シンボル)的あるいは隠喩的な欲望の転移形態といえるかもしれない。
それは、メディアや消費社会の与える「メッセージ」を主体的に読み解き、編集するような「能動的」受け手あるいはメディア「リテラシー」の出現を思わせるかもしれないが、必ずしもそうではない。
大塚氏が「物語消費」の例としてよく挙げる「ビックリマン・シール」にしても、その裏面に記された断片的情報から子ども=受け手たちが物語世界を「能動的」「主体的」に構築していったというより、むしろ『コロコロコミック』などの幼年誌がいち早くその物語世界を提示し、収集のためのマニュアルとして機能していたふしもある。
(この点については、今年のゼミ生が卒業論文「なぜコロコロコミックは小学生に人気があるか」でちらりとふれている。話は逸れるが、彼は「コロコロで卒論書いたヤツがいるらしい」という揶揄を受けたらしい。学問的に立派そうなテーマじゃないということなのだろうが、論文の神髄というのはテーマが学問的っぽいか、えらそうかということではないのだよ、学生諸君。コロコロコミックのような学問的に些細に思える「細部」にこそ「神」は宿るのだ。建築家ファン・デル・ローエの格率“God is in the details”を肝に銘じたまえ)
こうした「マニュアル」あるいはそれにしたがって構築された「データベース」というのは、いわば断片を寄せ集めた「集合」体である。
それは断片が意味的に関連づけられたシステム=「物語」ではない。
そこでの体系というのは、分類学のそれであって、収集した要素からなる「集合」を形式にもとづいて――意味内容ではなく――整理するための体系である。
意味内容にもとづかないからこそ、隣接性というむしろ「形式」間の関係による分類原理が採用されるのだ(「赤ずきん」がそれをかぶった少女の換喩たりうるのは、その物理的な隣接関係によるのであって、「赤」から意味的に連想される「情熱」なり「共産主義」なり何なりの「物語」がその換喩の意味にかかわってくるわけではない)。
マナー集などの「マニュアル」の背後には、確かにもともとはそのようにすべきであることを根拠づける「物語」があるだろう。
しかし、「マニュアル」において、それを根拠づける「物語」というのは副次的な位置にしかない。
最も重要なのは、どのようにすればOKかという事項(情報)のリスト=「集合」そのものなのだ。
だから、「物語」によって事項=要素を意味的に関連づけて配置するよりは、こういうときはこうすればOKという形式にもとづいて配置されたマニュアルのほうが、使い勝手はよい。
だって、車に乗るときの座席配置のマナーと宴席での座席配置のマナーが、もともとの根拠(起源)としては同じ「物語」によるものだとしても、それでまとめられるよりは、車に乗るときのマナーはこれこれこういうものです、宴席でのマナーはこれこれこういうものです、とそれぞれにリストアップされていたほうが、とりあえずは便利でしょ。
宴席ではどれだけのマナーを守っていればOKかを知りたいときに、車でのマナーの話まで入ってくるのはめんどくさいだけだし。
恋愛とかファッションとか、さまざまな側面でそうした「マニュアル」化が進んだのが、7〜80年代であったようにも思う(この点はきちんとした検証が必要だが)。
『何となくクリスタル』も『POPEYE』や『HotDogPress』も、若者男性に「マニュアル」として活用されていた。
この点で、データベース型消費の素地は、80年代の「新人類」文化のなかで――「オタク」文化のなかだけでなく――十分に準備されていたのだ。
隠喩的な「物語消費」の欲望が(アイロニカルに?)摩滅し、換喩的な「データベース消費」へと推移していった80年代後半。
いやむしろ、隠喩的な「物語消費」は(前期新人類の?)特権的なエリート層だけのものであり、大勢としては80年代以前から換喩的な「データベース消費」が優勢であったのかもしれない。
私が、大塚氏の「物語消費」より東氏の「データベース消費」のほうが、80年代の診断としてすら分があるように思えるのは、そこだ。


大澤氏の議論にもどろう。
ここでは、無限と神の類比によって論を展開する後半部は割愛するが(無限集合は自身と同じ濃度の真部分集合をもつ、ゆえに全体=神は部分=細部に宿りうる、というほどの安直・ナイーブな議論ではないことだけ断っておこう)、大澤氏は「神が細部に宿る」可能性を、他者への愛に求める。
「神への信仰の体験の源泉には、愛の関係がある」(p.125)という結論部はこうだ。

愛は、言わば、信仰以前の体験、信仰が信仰になる前の体験である。キリスト教は、法を愛に代えた。それは、信仰の原点への、原点以前の原点への回帰である。この原点以前の原点は、religioという語の、先に見たような両義性に痕跡をとどめている。一方では、それは、「心の諸状態を集め、落ち着かせる」ということに関連している。しかし、他方で、それは逆に「不安」に、つまりはそのように「集めきれない」ということにも関連しているのだ。
神は細部に宿る。これが真であるのは、神を、原点以前の原点における状態で理解した場合である。

このような「愛」(の関係)とはどのようなものか。
この論考のはじめのほうでは次のように書かれている。

オタクの細部への欲望が、結局は、神を細部に棲まわせることができなかったのは、その欲望が、対象=細部を換喩的に移行させる傾向を孕んでいたからだ。換喩的な移行は、「これは違う」「これは本物ではない」「これは真に求めていたものではない」という永続的な拒絶、否定によって駆動される。そうであるとすれば、逆に、神が細部に宿っていると見なしうるような体験とは、次のようなものであろう。「これこそまさに求めていたものだ」として、「これ」を全的な充足性において受け入れる体験、これである。このような体験は、あるのか?……。愛が、他者への愛が、それであろう。
誰かを愛するという体験は、換喩的な移行に頑固に抵抗する。つまり、別の人を、誰かの代わりに愛する、ということはできない。愛する人を失ったり、愛する人にふられた者に、「女は(男は)ほかにいくらでもいる」と言ったところで、何の慰めにもならない。「それ」「その人」でなくてはならないからだ。
そもそも、欲望の対象の換喩的な移行は、なぜ生じていたのだろうか?「これ」が、真に求めているものに比して、あまりにも卑小だからだ。真に求めているものとは、(宇宙の)全体性を一挙に代表しうる何か――つまりは「神」――である。愛するということ、他者を愛するということは、これとは違う。その弱さ、卑小さのままに、無条件に、彼(女)を愛するのだ。愛においては、より大きな全体との関係で、細部が相対化されることはない。そうであるとすれば、このときこそ、真に、神は細部に宿っていると言えるのではないだろうか。

(p.120)

大澤さんが「愛の人」であること(笑)がよくわかる一文だが、それはともかく。
他者というのは、そもそも偶然的な存在である。
「私」という存在は、「私」にとって、とりかえがきかない。
それを失う――「私」が死ぬ――ということは、世界を失うに等しいという意味で。
一方、他者の死は世界の「中」の一出来事にすぎない。
その意味で、他者は「私」ほどかけがえのない存在ではない。
他者は「ほかにいくらでもいる」という面をもつ。
他者の「偶然性」とはそのことを指すものとする。
他者への愛とは、その他者を偶然的ではない存在として遇するという、ある種「不可能」な(ロマンティックな言いかたをすれば「奇跡」的な)事態のことだ。
他者を愛すると同時に、その他者の偶然性は消しとんでいる。
大澤氏が「偶然性を受け容れさせる手続き」「システム」の構築が重要であるとし、「半分冗談みたいな話」として「くじ引きで紛争を解決」をもちだすとき(「ローティ的連帯は行き詰まっている」『理戦』2003年冬号)、もう一方で目を配っている先にあるのは、この「愛」ではないか。
もちろん、そんな危ういことを不用意に大澤氏が言うわけではない。
偶然性を偶然性として受け入れるのではなく、それを必然性(「運命」)として消しとばすものが「愛」。
いや、もう少し精確にいえば、愛の「物語」だ。
「物語」なき愛。
それはあまりに「奇跡」的で、そのように「奇跡」と呼ばれてしまうがゆえに、それは「物語」を召還する。
そのあやうさ。
おそらくは「自分探し」「私探し」と同根のあやうさだ
「愛」とはむしろ、偶然性/必然性という分節そのものを消しとばすものともいえるが、偶然性/必然性の分節の活きる社会のなかでそれと対するとき、それは「必然性」を根拠づける「物語」を召還してしまう。
ケータイ的な関係性とは、ある意味では「物語」なき「愛」を探る試みであるのかもしれない。
そうした試みは、当面のところ、どうしても社会のなかで局所的な領域(公/私の二項対立でいえばもっぱら「私」に分節されてしまう領域)での動きになるだろう。
その動きが広域的な社会空間の動態と接続されるとき、それは何かしらの「物語」へと回収されていく。
そこところが限りなくややこしい。
自分でも何を言いたいのか、よくわからんようになってきたが。


稲葉振一郎+黒木玄「いかにして自分(と世の中)を変えるか」『InterCommunication』48号、2004年
期待通りおもしろい対談でした。
耳が痛い点だけ抜き書き。

黒木 ……。ある程度訓練を積んでいる人と議論するときには、まず最初に勉強しなければいけない。それは高校レヴェルだとやっぱりちょっと足りない。大学一、二年レヴェルの勉強が非常に大事なんですよね。
稲葉 まったくそのとおりですけど、黒木さんの場合も、その大学一、二年レヴェルのリソースを集中的に利用できる場所であるはずの大学では訓練できなくて、三十過ぎてから出会ったどこかのわけのわからんチンピラ(笑)の相手をしているときに学んでしまった、ということですよね。……。これはなぜなのか。大学一、二年生は、自分がそうだった時代のことを思い返せば当然愚かだったので、当時の自分にわからないのは当たり前だとしても、しかしその愚かだった時代を過ぎたはずの大学教授が、なぜ大学一、二年生に少しでもマシな環境をいまだに提供してあげられないのか。もちろん自分も含めての話ですけど。
黒木 それはちょっと耳が痛い。

ううー、ガンガン耳鳴りがする...


●NHK世論調査部「「日本人の意識」調査にみる30年(1)/(2)」『放送研究と調査』2/3月号、2004年
基本的な経年変化の動向としては、これまでの延長線上にあり、この5年で特異な変化傾向はない。
人間関係については、世代(年齢層)間の格差より、時代効果による変化分のほうが大きいことは、注意すべき点。


河北新報社学芸部『大人になった新人類 三十代の自画像』勁草書房、2004年
昨日買って、ざざざと読む。
ていうか、広く浅い内容なので、ざざざと一瞬で読めてしまった。
新聞に掲載された特集シリーズだからしかたないところはあるが、社会学的な見かたからすれば全般に踏みこみが浅い印象。
得るところは少なかった。
卒論テーマで三十代のことを何かあつかう学部生がまずとっかかりで読むにはいいかもしれない。
でてくる三十代の「大人になった新人類」が仙台近辺の在住者ばかりなのは河北新報なのでしかたないが、それを日本の三十代全般代表的にあつかわず、(東北)地方と東京を対比させるような視点があれば、もうちょっとおもしろかったかもしれない。
むろん、地方都市のリトル東京化が加速していった80年代ではあるのだが、むしろだからこそ、いわゆる「地方の視点」を活かした80年代〜現在の記述もできたのではないか。

…新人類というのはどの年代の人々を指し、どのような特徴があるのだろう。…三浦展さん(四四)は、次のように説明する。
「今では、大ざっぱに一九六〇年代生まれを指すと言われますが、わたしは一九六〇年から六八年生まれを新人類だと考えています」
ただし、と三浦さんは補足する。六七、六八年生まれは、入社したころにバブルが崩壊してしまう。
「新人類の文化が、学生やOL、若いサラリーマン時代の消費文化だとすると、とりわけ六三年から六六年生まれの人々が、まあ、典型的な新人類ということになるでしょう」

ふーん、やっぱりオレはみごとにズバリ新人類世代だったのか。


●『大航海』49号、2004年 「特集 ファンタジーと現代」
昨日ようやく旭屋のバックナンバーコーナーでゲット。

ってな豪華執筆陣。
これはお買い得だった。
ただ、三浦俊彦「ファンタジーとしての〈私の宇宙〉」には、やはり「どうもなー」感が否めなかった。
分析哲学的な議論としてはいただけないし(たとえば「私の宇宙」を可能世界論とからめて問題にするのであれば、永井均のほうが内容としてもおもしろさとしても100倍優れている)、文学的なファンタジー論(虚構論)としても広がりを感じない。
『虚構世界の存在論』もそうだが(こちらは分析哲学の虚構論のレファレンス本としては役に立つ)、専門家が自慰的にパズルに興じているに感じられるのだ。
問題設定そのものが好事家的で、パズルを解くためだけになされているようなところがあり、分析哲学的あるいは文学的にプロパーな問題意識がかかげられているように一見みえて、しかしプロパーな問題意識からは容易に道を外れていってしまう。
だから余計に、


●E.John & D.M.Lopes "Philosophy of Literature", Blackwell, 2004
に収められたような分析哲学系の虚構論の着実さというか落ち着きというか地に足がついた加減というかが、好ましく思えてしまう。
洋書屋さんが見計らいで持ってきてくれて知った本だが、虚構やメタファに関する分析哲学の基本論文もひととおり収められていて、私にはけっこう重宝しそうなアンソロジー


今買おうか悩んでいるのは、M.Rakova(2003) "The Extent of the Literal"と、R.Holme(2004) "Mind, Metaphor and Language Teaching"(いずれもPalgrave)。
できれば欲しい本ではあるのだが、どちらもハードカバーしかなくて高いのだ。
うーん、それほど必要度の高い本ではないしなあ、今回は見送るか。