読書雑記

●「特集 非暴力の力」(ビッグイシュー、6号)
冒頭p.12-3に、1982年パレスチナで「チェックの模様のスカートをはいた少女が殺されていた」写真。
こういうの、もう、ダメです。
自分の子どもと年格好が近い子どものこういう写真。
もう、どうしようもなく、感情的に反応して動揺してしまう。
それを素朴に言説化することに問題なしとはいえないことはわかっていても、どうしようもない。
そこがむずかしい。


p.16-7には「踊らされるな。自分で踊れ  ゆるく、楽しく、あきらめない反戦」という記事。

声を上げても沿道から冷たい視線で見られる「苦行のようなデモ」はNG。必要なときに集まり、自分たちの好きな表現方法で反戦を訴える。そんな旧来の慣習にとらわれない反戦運動が、若者たちの間に広がっている。

とのこと。
いわゆる「まつり」としての「運動」なわけだが。

また、電子メールとインターネットで参加者を募る「Global★Peace Action」は、タウンウォークのほか、クリスマス時にはサンタクロース姿で反戦を訴えるなど、親近感のあるパフォーマンスを実施。昨年には医者や看護婦姿で街頭に立ち、街行く人に「戦争ウイルスに感染していませんか」と呼びかけた。創設メンバーの一人である土屋典子(22歳)さんは「反戦を訴える本人が楽しそうに見えないと、沿道で見ている方も辛い。私たちが開放感を感じ、見ている人にクスクスと笑ってもらえるような関係を持ちたい」と言う。

ここには新しい運動のかたちがあるだけで、とりたてて問題はないように思えるかもしれない。
そういえば90年ごろ、玖保キリコの『シニカル・ヒステリー・アワー』に、署名を呼びかけたほうもハッピー、署名したほうもハッピー、署名で助かる人もハッピー、それを「偽善的」といったところで何の問題が?、というようなマンガがあったことをふと思い出した。
しかし、あえて意地悪な言いかたをしよう。
「本人が楽しそう」で、「見ている人にクスクス笑ってもらえる」ような「運動」のありかた、と聞いて、オウムの選挙運動を思い浮かべてしまったのは私だけだろうか、そうですか。


菅野盾樹『新修辞学』世織書房、2003年
最近になるまで出版されたのを知らず(出版予定なのは知っていたが)、見落としてました。
しまった、昨年9月に書いた「コミュニケーションとレトリック」(『社会情報学ハンドブック』だか何だかのタイトルでもうじき出版されるはずの本の一項)の読書案内に含めるべき一冊だった。
ただ、斜め読みした限りでは、内容的にはこれまでの著者の論文や本での主張がまとめられたもので、新しい論点はあまりない。
もちろん、レトリック研究者にとって必読文献であることに変わりはないが。
アイロニーを扱った箇所で、内海彰氏の暗黙的状況提示理論(仮説)への言及がないのはNGだろう。
儀礼的関心を示しておくべきということではなく、論旨からしても当然取り上げるべき。
内海氏の論は、世界的にみても、アイロニー論のなかで最も優れたものと思われる。


●A.N.ジョインソン『インターネットにおける行動と心理』北大路書房、2004年
社会心理学的なインターネット研究を手がけようとする者には必読の一冊。
これまでの研究動向がかなり網羅的かつ高密度にまとめられている。
不勉強にして2002年に出版された原著に目を通していなかったことを恥じる(反省)。
インターネットを卒論のテーマにと考えている人は、この本と、少し古いが『インターネットの心理学』(坂元章編、学文社、2000年)をまず読むと、この分野の研究の全体的な見取り図が手に入っていいだろう。
P.ウォレスの『インターネットの心理学』よりずっといい(単に出版年がより新しいという以上に内容的に)。


北田暁大「リアリティ・アドなど存在しない」『d/SIGN』no.6、2004年
タイトルにあらわれている主張に双手をあげて同意。
「リアリティ・アド」という分節化がアメリカでおこなわれていることは私も寡聞にして知らなかった。
むろん、シロウトさんを起用したり、CM撮影を終えた出演者が広告商品をおいしそうにぱくつくなどという「リアリティ」のもたせかたは、ゴフマンも古くから指摘していたとおり(Frame Analysisだったか)、広告の常套手段だったわけだが、北田はむしろ「リアリティ・テレビ/アド」なる分節化(←→非リアリティ・テレビ/アド)が発効するアメリカとそれが失効する日本のメディア論的差異に注目する。

未来日記』や『あいのり』のことを「リアリティ・テレビ」と呼ぶ視聴者は日本にはいなかった。それが「リアリティ」であることを賭金とした《テレビ》番組であることを、誰もが知悉していたからだ。どんなによくできたドキュメンタリー・タッチの広告であれ、それが「本当っぽさ」を狙った広告であることを見透かす受けてのように、である。逆にいえば、「リアリティ・テレビ/アド」なるカテゴリーをことさらに立てる人びとは、テレビの媒介性を消去しうる…という非‐広告的な論理を前提(パロール中心主義)にしているということになる。メディア論的な括弧入れのオペレーションが存在しないからこそ、「リアリティ」が「表象」されるということがベタな驚きをもって受けとめられるのである。
……。ただ、リアリティ・アドというカテゴリーを実定化させるアメリカの言説空間が、奇妙な「パロール中心主義」に貫かれているということはできるだろう。それがネオコン的――〈帝国〉的「リアリズム」と何らの関係がないことを祈ってやまない。

(p.43)

さて、そうした「メディア論的な括弧入れ」操作の存在しない――いわば理解容易な「透明な他者」か、その裏面にあたる理解不能な「不可視の他者」しか存在しない――アメリカの「ネオコンの論理」について、大澤は次のように解説する。


大澤真幸「ローティ的連帯は行き詰まっている」『理戦』2003年冬号

ネオコンの論理』は極めて単純で、ヨーロッパとアメリカの世界観の違いは武力の違いと相関しているということです。……。比喩的にいえば、アメリカは強力な武器を持つハンターであり、ヨーロッパはせいぜいナイフぐらいしか使えない弱者である。……。
ではアメリカはなぜそこまで強力な武器をもつのか。武器で威嚇しないと分からない凶暴な〈熊〉がいるからです。〈熊〉に話したところで仕方がないので、襲ってきたら撃つしかない。……。それに大してナイフしか持っていないヨーロッパは〈熊〉と闘っても勝てるはずがない。そうなればできるだけ〈熊〉に遭遇したくなくなる。遭遇したくないだけならいいんですが、やがて〈熊〉なんてそもそも存在しないのではないかと疑いだし、そこから逆にナイフだけでも大丈夫だと自分達を安心させる。ヨーロッパは〈熊〉がいない世界を前提西、アメリカは〈熊〉がいる世界を前提にしているということです。そこでケーガンは、ヨーロッパはカント的永遠平和、アメリカはホッブズ的闘争状態として世界を理解していると指摘します。私はこの分析は正しいと思います。

(p.44-5)

そして、このヨーロッパ/アメリカの相違は、ハーバーマス/ローティの思想的相違とパラレルであることを大澤は指摘する。

つまりアメリカは銃を持って自立しているけれども、ヨーロッパは自立していないということです。哲学的に言えば、ハーバーマスの世界よりローティの世界の方が勝っている。ハーバーマスのコミュニケーション的行為論はモダンの考えです。現にハーバーマスは、近代は「啓蒙時代の未完のプロジェクト」であり、まだ作りかけの途中だと言います。合理的な討議を続けながら普遍的な真理に向かっている途中であると。それに対してローティは、そもそも互いに話しても分からない世界に生きていることを前提にしています。その意味でケーガンの描きだした世界は、実はローティ的な世界ともいえます。

(p.45-6)

しかし、「ハーバーマス的なモダンの考え方も、ローティ的なポストモダンの考え方ももはや役に立たない」(p.48)、それはなぜか。

結局ハーバーマス的な必然性論者もローティ的な偶然性論者も、「あるもの」から逃げているんです。必然性論者は偶然性を否定し、「たまたま」論者は「違うたまたま」を否定する。つまり両者とも「偶然性」から逃げている。自分が信じているものが偶然性であることに我慢できない。自分は偶然こういう世界を生き、こういうものを信じるようになった、という自分の偶然性に耐えられないのです。逆に言うと、偶然性を受け容れさせる手続き、それぞれの人が「自分はどうしようもなく偶然性である」ことを観念せざるを得ないシステムを構築することが大事だということです。

(p.50)

この「偶然性」について、大澤は別の論文でもふれているのだが、その前にちょっと寄り道。


●J.ハーバーマス「「世界無秩序」克服への道(上)」『世界』4月号
アメリカがイラクにしかけた戦争への批判をめぐるインタビュー。
最初の部分の発言だけ、ちょっとふれておきたい。
周知のように、ハーバーマスNATOによるユーゴ空爆コソボ介入)時には、それに支持を与えている。
しかし、アフガン、イラクに対するアメリカの軍事行動は批判する。
これらのケースをどう区別しているのかというインタビュアーの質問に対する答え。

…今次の湾岸戦争は…あきらかな国際法違反であり、しかも二〇〇二年九月以来、ブッシュによる公然たる脅しをともなっていたわけです。ほんらい軍事介入を正当化しうる二つの要件があるのですが、今回の場合はそのいずれにも該当しなかった。すなわち、対応する安保理決議もなかったし、イラク側からの攻撃の差し迫った危険もなかったのです。このことはイラク大量破壊兵器が見つかるかどうかとはまったく関係のないことでした。先制攻撃には「後追い」の正当化はありえない。単なる疑惑によって戦争を始めることは、誰にも許されていないのです。
コソヴォの状況がそれとどんなに違っていたかはお分かりでしょう。ボスニア戦争中すでに幾多の悲惨な経験が重ねられてきた…その後で西側世界は、ミロシェビッチによるさらなる民族浄化を見過ごすか…介入するかを決定しなければならなかったのです。たしかに安保理は機能停止していた。国連憲章は介入に先立って安保理の承諾を求めている。だが安保理による承認に代わりうるとは言えないまでも、二つの正統な根拠…があったのです。すなわち第一に、ジェノサイドの脅威がある場合の緊急援助の命令…が根拠となる。それはもともと国際慣習法の不可欠な構成要素の一つです。そして第二に、NATOが自由な国々の同盟を意味している、という事情を考量することができる。自由な国々とは、国連人権宣言の諸原理がその国内で尊重されている国々のことです。……

(p.176)

ハーバーマスユートピアを夢想する理想主義者のようにしばしば言われることがあるが、私はかなりしたたかな現実主義者であるように思う。
そもそも自説であるコミュニケーション的行為の理論にしたがえば、あらゆる戦争や軍事行動はその理想にそぐわぬものとして批判されるべきものだ。
そこまで「青臭い」ことはハーバーマスはしない。
むしろ現実にそくしたかたちでの自説(理想)の妥協を試みる。
このインタビューの部分で、ハーバーマスが焦点をあてているのは、軍事行動そのものの正統性より、その正統性の承認をめぐる可能な手続きのことだろう。
国際社会におけるその(可能な)承認の手続きは、コミュニケーション的行為として本来はおこなわれるべきものだ。
その承認を求めるコミュニケーション的行為は、当然、再検証可能な(nachprufbar)妥当性の主張をともなう。
つまり、コソボの場合は、仮に承認を求めるコミュニケーション的行為がおこなわれていたとして、その妥当性の検証がおこなわれたとしたら、その妥当性が認められるだけの正統性や証拠があった、とハーバーマスは言うのだ。
可能性にとどまった承認の手続き=コミュニケーション的行為が実際におこなわれていたとしたら、という反実仮想のレベルにまでハーバーマスは戦線を撤退(妥協)させて、コソボイラクの区別をおこなう。
ハーバーマスなりにこれはぎりぎりの妥協点であって、これ以上、戦線を撤退させるわけにはいくまい。
むろん、問題はその戦線のはりかたそのものにあるわけだが、コミュニケーション的合理性に――おそらくはベタにではなくあえて(手放しでベストとはいえないまでも次善の策としてそれしかなかろうというかたちで)――賭けてみせるハーバーマスが、現実的な戦略としてそうした妥協策をとるのは、わかるような気もする。
理論的にハーバーマスのコミュニケーション的行為の理論を批判するのはある意味でたやすいかもしれないが、じゃあ、実際問題として――しかも現実主義的対応一辺倒ではなく――どういう理想・理念をかかげて現実に応じていくのか、という段になると、ハーバーマスはなかなかに手強い。
大澤さんが「半分冗談みたいな話」として提示する「くじ引きで紛争を解決する」システム=偶然性を観念せざるを得ないシステムが、これも一種の「次善の策」であるなら、ハーバーマスの「次善の策」とどっちが「マシ」か。
これはそう簡単に判定のつく問題ではあるまい。


ううん、なんだか、けっこうずらずら書いて時間を食ってしまったので、つづきはまた明日にでも。