『「おたく」の精神史』

「おたく」の精神史 一九八〇年代論

「おたく」の精神史 一九八〇年代論

あちこちで書類を待つ間や移動中に、そちこちで話題になっている本書を半分くらい読み、税務署から研究室に戻っておしまいまで読む。
「感慨」も「反発」も「当事者感」も「置いてけぼり感」もあまり感じることなく、なんつうか「ふつー」に読めてしまいました。
この本で扱っている80年代(の「おたく」とか「(前期/後期)新人類」とか)、10代後半〜20代前半であった私もある意味で「当事者」の一部ではあるかもしれんのですが、なんせ関西ですごしていた「イナカモン」であったので、半分(以上)は脇から横目で見ていたようなところがある。
『何となくクリスタル』もほぼリアルタイムで高1のときに読んだ気がしますが、「へー、東京ってのはこんなブランドやお店があるんだなー、東京の大学に行くことになったら勉強(笑)しなきゃいけないんだろーなー」って感じだったし。
ビックリハウス』も読んでいたけど、そこから「ピテカン」も知ってはいたけど、東京に遊びに行ったときにお上りさん気分でおそるおそる「のぞく」ような場所でしかなかったし。
ニューアカやDCブランドやコピーライター(広告)ブームの洗礼も浴びたけども、微妙に時期がずれていて、大学卒業する頃には完全に盛りをすぎてたし。
65年生・関西在住者の私には、そうした場所的・時代的な微妙なずれがあって、それが半分(以上)脇から横目で見るような感覚を生んでいたのかもしれない(今から思えばだが)。
だから、この本を読んでも、「そんなことがあったと“聞いたことがあった”なー」的な脇目感覚を追体験するような感じで、「近さ」も「遠さ」も感じない。
私にとっての80年代というのは、いわばこの本を読むような体験であって、当時読んだ本を久しぶりに読み返してみましたというような感覚しかおこらないのかもしれない。
この本の内容について、いろいろと思う・考えるところはあるけれども、この本の「読書体験」としては私には語りたくなるようなものはさしてなく、むしろこの本が「読書体験」語りをそちこちでひきおこしていることのほうがおもしろく思えた。
私にはたぶん、著者が自分で自分の聞き語りを書きとめた「資料」(80年代についての史料)という以上の意味をこの本はもちそうにない。
私のような空間時間的ポジションって「新人類」「おたく」からもこぼれる真性の「狭間世代」(by荷宮和子)なのかもなあ。